今度こそ短い話を!
自己満足はなはだしいのですが、『丘の上の秘密』にちょっと出てきたエッジの両親の話を膨らませてみました。
お館様のお父様とお母様が主役で、ふたりの結婚の経緯を書いたという本邦初?の激しい捏造話です。書いていたら我ながらご両親が好きになってしまいました。自己満足という目的は達成されました…
ということで、世界観は共有しているつもりですが、ちょっと変わった話なのでお気をつけください。お父様は若気の至りってかんじで、お母様は無邪気ですがちょっと乙女ちっくです。おまけのように最後にちょこっとだけ若様時代のお館様が出てきます。ややこしくてすみません!
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『冷血の婚礼』
エブラーナの王位継承者である自分の結婚相手として名前が挙げられたその人物は、よく知っている娘だった。
まず思い出されたのは、輝くような美貌と流れるような美しい黒髪、そして透き通った空色の瞳だった。確か年齢は自分よりかなり下のはずだ。
次に思い出したのは、彼女のあだ名だった。彼女は類まれな美女であるにも関わらず、頑固で気が強く、血肉に動じず、男になびかないと女だと噂されていた。つけられたあだ名は「冷血美女」。そんな話から、エブラーナ中の美女という美女に手をつけてきた自分が、この娘とは関係を持ったことがなかった。興味がなかったと言えば嘘になるが、面倒なことをするまでもなく、自分の周りには常に女がいたのだ。
ひとつだけ、彼女との記憶があった。
ほぼ一年前、バブイルの塔の近くで魔物の大群に襲われ、命からがら城へ帰った時のことだった。
真っ青な顔をした彼女は、何人かの部下を連れて部屋に駆け込んでくるやいなや、自分の胸から腹にかけての裂傷を見て、大粒の涙をこぼした。「冷血美女」と呼ばれる彼女の泣き顔があまりにも意外で、痛みも忘れてその姿を見つめていた。
血をぬぐい消毒をしている最中も、彼女は唇を噛んで涙をこらえようとし、そして時々それに失敗していた。王位継承者の命を握っているという責任感におびえているのだろうか。彼女の見立てでは自分は長くないのかもしれないな、と感じたことを覚えている。
細い指で薬をすりこまれる。なめらかな動きと、肌に触れるつややかな髪の毛の先がくすぐったくて逃げるように身をよじると、腕を上から押さえつけられた。
「今、きちんと手当てをしなければ、若様はお隠れになります」
凛とした声で言い放ち、潤んだ空色の瞳でまっすぐに自分の目を見据える彼女は、噂通りの気丈さだった。そして、圧倒され、空恐ろしさを覚えるほど、美しいと思った。彼女は涙をぬぐって、髪を後ろでひとつに結うと、部下から手渡された針と糸を持ち、手早く傷を縫い始めた。
傷が癒えるまでの間、彼女は日に何度も自分の部屋へやってきた。おそらく、部下に任せればよいであろう、検温や身体の拭き取り、包帯の交換も彼女が行った。あの日見た涙が嘘のように、冷血美女というあだ名の通り余計なことはしゃべらずに、表情も変えずに淡々と手を動かした。
彼女の処置のおかげか、経過は良好のように見受けられた。ある日、もう動けるだろうと判断し、言いつけを守らずに城を抜け出した。女に会い、部屋へ戻ると、部屋の前に冷血美女が無表情で立っていた。彼女の診察前に帰ってくるつもりでいたが、久しぶりの逢瀬を楽しみすぎて、戻るのが少し遅かったようだ。叱責を覚悟したが、彼女は黙って自分のあとについて入室した。
ベッドに横たわると、彼女は無言で衣服に手をかけ、その下に現れたゆるくだらしなく巻かれた包帯を手早く取り除いた。女が傷を見たいとねだったので、思わず包帯を取ってしまったのだが、彼女が巻くように隙間なく、きれいには巻き直すことができなかったのだ。几帳面な彼女はおそらく包帯が外されて巻き直されたことに気づいただろうが、そのことには触れずに傷に消毒を施す。嗅いだことのない、甘い香りを漂わせる薬だった。傷口に布を当てて、新しい包帯を取り出す。もちろんゆるみなどなく、身体に密着するかのようにしっかりと巻かれた。
「まだ傷はふさがっていらっしゃいません。不用意なことをされますと、悪化してしまいますので、お気をつけください」
去り際にそう言い残し、彼女は一礼して部屋を出て行った。
その後、彼女の予言通りというべきか、傷が痛む上に全身がしびれ、数日間動けなくなったのであった。しばらく、抜け出すのはやめようと心に誓った。
あの時落としかけた命を現世に留めた功績が認められて、彼女は自分の妃になるのだろう。
しかし、自分の妻にと指名された彼女の内心をうかがい知ることはできなかった。病に倒れた父王の代理で日々の公務は忙しく、彼女は彼女で父王の看病に当たっており、ふたりで会う時間どころか、顔を合わせる機会すら稀だった。たまに城内ですれ違っても、まるで何事もないように、他人行儀に感じられるくらい折り目正しい礼をしてくるのであった。
婚礼の儀は明日に迫っていた。今日と明日で、自分の人生がどのように変わるのか想像できない。明朝、臣下が自分を起こしに来て、そのまま人形のように着せ替えられ、呆然としている間に儀式が終わるのだろう。そういえば、明日からはこの部屋で彼女と褥を共にすることになるのだろうか。冷血美女が自分の腕の中で悶える姿を想像すると、悪くないような気がした。
長い一日に備えて、そろそろ横になろうとした時だった。部屋の扉が三度叩かれた。訝しながらも開けると、薄紅色の振袖に、鶯色の帯を締めた美しい女が立っていた。
「若様」
自分を呼ぶ凛としたその声で、彼女が明日自分の妻になる女だということを確信した。夜闇の中でいつもと違う格好をしていたので自信がなかったのだ。唇には紅をさしており、漆黒の髪は簪で頭の後ろで留められていた。初夜には一日早くないか?と思ったが、口にしないでいると、彼女は柔らかい両手で自分の右手を包み込んだ。
「ご一緒いただきたいのです」
有無を言わさぬ語調と心地良い感触に思わずうなずくと、彼女はうっすらと微笑んだ。初めて見る彼女の笑顔は、睡蓮のように鮮やかで、そのまま沼に吸い込まれそうになるほど怪しいものだった。
彼女は城を出て、そのまま北西の方向に歩き始めた。てっきり海辺にでも行くのかと思っていたので、山しかないその方角へ向かっている理由は見当もつかなかった。
よく見ると、彼女は大きな袋を携えていた。代わりに持とうかと提案したところ、かたくなに拒まれた。
小高い丘の頂上で彼女は足を止めた。月明かりに照らされて、城、海、山、そしてバブイルの塔までが一望できる。彼女は抱えていた荷物を下ろし、美しい着物を着ているにも関わらずその場に膝をついて地面に穴を掘り始めた。とても身分の高い女のすることとは思えない。止めようとすると、大丈夫です、と手を払われたので、仕方なくその姿をおとなしく眺めていることにした。
水分を含んだ土の香りが漂っている。やがて、彼女は掘ることをやめて、包みを開き始めた。紙に覆われたそれは苗木だった。これまた包みから取り出した堆肥と思われるものをまず穴に落とし、その上に先ほど掘り返した土を少しかける。そして苗木をさしたのち、さらに土をかけて幹を固定した。
彼女の美しい手は土にまみれて黒くなっていた。袖に付着した埃は叩けばとれるだろうか。そんな杞憂もどこ吹く風で、彼女は自分の方を向き返って先ほども見せたような微笑みを浮かべた。
「桜を見事に咲かせる方法をご存知ですか?根元に死体を埋めるのだそうです」
「…はあ?」
思わず呆けた声をあげてしまう。彼女の言葉で、植えていたのが桜だということを知った。葉もつぼみもない苗木を見て種類がわかるほど、植物には通じていなかった。
「わたくし、童のころから、若様のことをお慕いもうしておりました」
思わぬ告白に、心臓が止まるかと思った。そう言ってくる女は少なくない。しかし、冷血美女と呼ばれる彼女から発せられた言葉だとはにわかに信じられなかった。
「初めてお姿を拝見しましたのは、北の蛮族を討伐されたあとの凱旋式でございました。その時に、美しく、強い若様のためにわたくしの人生があるのだと天啓を受けた心地がいたしました」
思い出せないくらい過去の出来事を引き合いに出され、困惑するほかない。北の蛮族の討伐はもう十年以上前の話だ。自分も若かったが、彼女は少女と呼ぶにも幼い年齢だったことだろう。
ふと、怪我をしたときに涙を流しながら手当をしてくれた姿を思い出す。あの涙は王位継承者を失う恐れだと思っていたのだが、彼女の恋慕の念の方が強かったのかもしれない。
「それから、若様のお役に立ちたい一心で生きて参りました。ですから、ご家老様から若様との縁談のお話をお聞きした際には、天にも昇る気持ちでございました」
ずっと自分の目を捉えていた強いまなざしがふと伏せられた。明るい満月の光が、彼女の顔に睫毛の長い影を落とす。ややあって、彼女は短い息を吐き出した後に言葉を継いだ。
「しかし、若様はわたくしと結ばれることを望まれていらっしゃるのでしょうか。わたくしは、薬師としては多少お役に立てるかもしれませんが、女として若様に喜んでいただける術を持ち合わせておりません。ですから、もし若様がわたくし以外の方を娶りたいということでしたら」
彼女は懐から朱に塗られた護り刃を取り出し、まるで舞っているかのような優雅な動作で、鞘から抜いた。切っ先が月の光を反射して怪しくきらめく。彼女が刃をその細い喉に向けたところで我に返り、飛びかかって押し倒した。放り出された刃が弧を描いて遠くの地面に刺さった。
「…危ないだろうが」
甘い息がかかるくらい近くに、美しい顔があった。潤んだ瞳は驚いたように見開かれていて、何が起こったかわからないようだった。
よもや、目の前で自害しようとするとは。思わぬ一面を見せつけられて、思わず笑いがこみあげてきた。
「お前、面白い女だな」
「どういう意味でしょうか」
「飽きない女は好みだ」
「…では、わたくしでよろしいのでしょうか」
震える声で投げかけられた問いに答えず、唇を重ねた。
顔を離すと夢を見ているかのように恍惚とした表情がそこにあり、一気に欲情がかきたてられた。
…初夜には一日早い。
先ほども思い浮かんだ考えが脳裏をよぎったが、腕の下から立ち上るかぐわしい香りと熱が理性のともしびを吹き消した。
襟に手をかける。薄紅色の着物の地紋と、その下の白い肌が銀色の光の中に浮かび上がった。
「死体がなくとも桜は咲くだろう」
「乙女の血でも、よろしいかと」
艶やかに微笑んだのち、彼女は瞳を閉じた。吸い込まれそうな美しさに抗うことはできなかった。
「…で、なんでおふくろはこの木を親父にやろうと思ったんだよ」
満開の桜の下で毎年同じ問いを投げかけられるのは恒例行事となっていた。
息子は、かつて胸を焦がした夫と瓜二つに成長していた。
自分が抱いた恋情を、知っておいてもらいたい気がした。将来、彼が恋をしたときに、何かの足しになるかもしれない。そして、自分が儚くなっても、この世界に生きた意味を残しておきたいと思った。
「そろそろお話ししてもいい時期なのかもしれませんね」
隣で夫が驚いたように目を開いた。うっすら微笑んで、彼の不安をいなす。やがてあきらめたように、夫の視線は外方に向けられた。
「わたくしは、あなたのお父様に恋焦がれていました。幼いころから、ずっと」
語り始めると、当時の感情がみずみずしくよみがえり、いろいろな場面に話が及んだ。
大怪我をして安静中だった夫が女と密会して帰ってきたときは、あまりの悔しさに消毒薬と見せかけた麻酔を塗りこんで、三日三晩寝たきりにしてやった、という逸話を披露したところ、「ああ…あれはお前の仕業だったんだな」と夫が眉間に皺を寄せた。どうやらこれまで明かしていなかったようだ。すっかり忘れていた。
結婚前夜の胸の高鳴りは今でも覚えている。月明かりの下、特別にしつらえた振袖の懐に短刀を忍ばせ、夫とふたりでこの場所まで来る間、その時間が幸せの絶頂だと思っていた。死んであの世で結ばれるという神話を信じ込んでいた自分がいかにも少女でおかしい。
あの時感じていた幸せは、身震いするような、背徳感に心が躍っているようなものだった。今抱いている温かい感情は、あの時の感情とはほど遠い。興奮はないが、優しくて、すべてを覆うような心地よさだ。
「わたくしは苗木を植えて、お父様に言いました。『桜を見事に咲かせる方法をご存知ですか?根元に死体を埋めるのだそうです』と。これがこの桜にまつわる話です」
「…はあ?」
息子とはあの時の夫とまったく同じ反応をした。隣の夫は、安堵なのか呆れなのかわからないため息をひとつついた。
end
自己満足はなはだしいのですが、『丘の上の秘密』にちょっと出てきたエッジの両親の話を膨らませてみました。
お館様のお父様とお母様が主役で、ふたりの結婚の経緯を書いたという本邦初?の激しい捏造話です。書いていたら我ながらご両親が好きになってしまいました。自己満足という目的は達成されました…
ということで、世界観は共有しているつもりですが、ちょっと変わった話なのでお気をつけください。お父様は若気の至りってかんじで、お母様は無邪気ですがちょっと乙女ちっくです。おまけのように最後にちょこっとだけ若様時代のお館様が出てきます。ややこしくてすみません!
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『冷血の婚礼』
エブラーナの王位継承者である自分の結婚相手として名前が挙げられたその人物は、よく知っている娘だった。
まず思い出されたのは、輝くような美貌と流れるような美しい黒髪、そして透き通った空色の瞳だった。確か年齢は自分よりかなり下のはずだ。
次に思い出したのは、彼女のあだ名だった。彼女は類まれな美女であるにも関わらず、頑固で気が強く、血肉に動じず、男になびかないと女だと噂されていた。つけられたあだ名は「冷血美女」。そんな話から、エブラーナ中の美女という美女に手をつけてきた自分が、この娘とは関係を持ったことがなかった。興味がなかったと言えば嘘になるが、面倒なことをするまでもなく、自分の周りには常に女がいたのだ。
高官の娘ながら、誰よりも薬や看護に詳しいため、忍軍で重用されている。言われてみると、彼女以上に妃という立場にふさわしい人物はいないように思えた。
ひとつだけ、彼女との記憶があった。
ほぼ一年前、バブイルの塔の近くで魔物の大群に襲われ、命からがら城へ帰った時のことだった。
真っ青な顔をした彼女は、何人かの部下を連れて部屋に駆け込んでくるやいなや、自分の胸から腹にかけての裂傷を見て、大粒の涙をこぼした。「冷血美女」と呼ばれる彼女の泣き顔があまりにも意外で、痛みも忘れてその姿を見つめていた。
血をぬぐい消毒をしている最中も、彼女は唇を噛んで涙をこらえようとし、そして時々それに失敗していた。王位継承者の命を握っているという責任感におびえているのだろうか。彼女の見立てでは自分は長くないのかもしれないな、と感じたことを覚えている。
細い指で薬をすりこまれる。なめらかな動きと、肌に触れるつややかな髪の毛の先がくすぐったくて逃げるように身をよじると、腕を上から押さえつけられた。
「今、きちんと手当てをしなければ、若様はお隠れになります」
凛とした声で言い放ち、潤んだ空色の瞳でまっすぐに自分の目を見据える彼女は、噂通りの気丈さだった。そして、圧倒され、空恐ろしさを覚えるほど、美しいと思った。彼女は涙をぬぐって、髪を後ろでひとつに結うと、部下から手渡された針と糸を持ち、手早く傷を縫い始めた。
傷が癒えるまでの間、彼女は日に何度も自分の部屋へやってきた。おそらく、部下に任せればよいであろう、検温や身体の拭き取り、包帯の交換も彼女が行った。あの日見た涙が嘘のように、冷血美女というあだ名の通り余計なことはしゃべらずに、表情も変えずに淡々と手を動かした。
彼女の処置のおかげか、経過は良好のように見受けられた。ある日、もう動けるだろうと判断し、言いつけを守らずに城を抜け出した。女に会い、部屋へ戻ると、部屋の前に冷血美女が無表情で立っていた。彼女の診察前に帰ってくるつもりでいたが、久しぶりの逢瀬を楽しみすぎて、戻るのが少し遅かったようだ。叱責を覚悟したが、彼女は黙って自分のあとについて入室した。
ベッドに横たわると、彼女は無言で衣服に手をかけ、その下に現れたゆるくだらしなく巻かれた包帯を手早く取り除いた。女が傷を見たいとねだったので、思わず包帯を取ってしまったのだが、彼女が巻くように隙間なく、きれいには巻き直すことができなかったのだ。几帳面な彼女はおそらく包帯が外されて巻き直されたことに気づいただろうが、そのことには触れずに傷に消毒を施す。嗅いだことのない、甘い香りを漂わせる薬だった。傷口に布を当てて、新しい包帯を取り出す。もちろんゆるみなどなく、身体に密着するかのようにしっかりと巻かれた。
「まだ傷はふさがっていらっしゃいません。不用意なことをされますと、悪化してしまいますので、お気をつけください」
去り際にそう言い残し、彼女は一礼して部屋を出て行った。
その後、彼女の予言通りというべきか、傷が痛む上に全身がしびれ、数日間動けなくなったのであった。しばらく、抜け出すのはやめようと心に誓った。
あの時落としかけた命を現世に留めた功績が認められて、彼女は自分の妃になるのだろう。
しかし、自分の妻にと指名された彼女の内心をうかがい知ることはできなかった。病に倒れた父王の代理で日々の公務は忙しく、彼女は彼女で父王の看病に当たっており、ふたりで会う時間どころか、顔を合わせる機会すら稀だった。たまに城内ですれ違っても、まるで何事もないように、他人行儀に感じられるくらい折り目正しい礼をしてくるのであった。
婚礼の儀は明日に迫っていた。今日と明日で、自分の人生がどのように変わるのか想像できない。明朝、臣下が自分を起こしに来て、そのまま人形のように着せ替えられ、呆然としている間に儀式が終わるのだろう。そういえば、明日からはこの部屋で彼女と褥を共にすることになるのだろうか。冷血美女が自分の腕の中で悶える姿を想像すると、悪くないような気がした。
長い一日に備えて、そろそろ横になろうとした時だった。部屋の扉が三度叩かれた。訝しながらも開けると、薄紅色の振袖に、鶯色の帯を締めた美しい女が立っていた。
「若様」
自分を呼ぶ凛としたその声で、彼女が明日自分の妻になる女だということを確信した。夜闇の中でいつもと違う格好をしていたので自信がなかったのだ。唇には紅をさしており、漆黒の髪は簪で頭の後ろで留められていた。初夜には一日早くないか?と思ったが、口にしないでいると、彼女は柔らかい両手で自分の右手を包み込んだ。
「ご一緒いただきたいのです」
有無を言わさぬ語調と心地良い感触に思わずうなずくと、彼女はうっすらと微笑んだ。初めて見る彼女の笑顔は、睡蓮のように鮮やかで、そのまま沼に吸い込まれそうになるほど怪しいものだった。
彼女は城を出て、そのまま北西の方向に歩き始めた。てっきり海辺にでも行くのかと思っていたので、山しかないその方角へ向かっている理由は見当もつかなかった。
よく見ると、彼女は大きな袋を携えていた。代わりに持とうかと提案したところ、かたくなに拒まれた。
小高い丘の頂上で彼女は足を止めた。月明かりに照らされて、城、海、山、そしてバブイルの塔までが一望できる。彼女は抱えていた荷物を下ろし、美しい着物を着ているにも関わらずその場に膝をついて地面に穴を掘り始めた。とても身分の高い女のすることとは思えない。止めようとすると、大丈夫です、と手を払われたので、仕方なくその姿をおとなしく眺めていることにした。
水分を含んだ土の香りが漂っている。やがて、彼女は掘ることをやめて、包みを開き始めた。紙に覆われたそれは苗木だった。これまた包みから取り出した堆肥と思われるものをまず穴に落とし、その上に先ほど掘り返した土を少しかける。そして苗木をさしたのち、さらに土をかけて幹を固定した。
彼女の美しい手は土にまみれて黒くなっていた。袖に付着した埃は叩けばとれるだろうか。そんな杞憂もどこ吹く風で、彼女は自分の方を向き返って先ほども見せたような微笑みを浮かべた。
「桜を見事に咲かせる方法をご存知ですか?根元に死体を埋めるのだそうです」
「…はあ?」
思わず呆けた声をあげてしまう。彼女の言葉で、植えていたのが桜だということを知った。葉もつぼみもない苗木を見て種類がわかるほど、植物には通じていなかった。
「わたくし、童のころから、若様のことをお慕いもうしておりました」
思わぬ告白に、心臓が止まるかと思った。そう言ってくる女は少なくない。しかし、冷血美女と呼ばれる彼女から発せられた言葉だとはにわかに信じられなかった。
「初めてお姿を拝見しましたのは、北の蛮族を討伐されたあとの凱旋式でございました。その時に、美しく、強い若様のためにわたくしの人生があるのだと天啓を受けた心地がいたしました」
思い出せないくらい過去の出来事を引き合いに出され、困惑するほかない。北の蛮族の討伐はもう十年以上前の話だ。自分も若かったが、彼女は少女と呼ぶにも幼い年齢だったことだろう。
ふと、怪我をしたときに涙を流しながら手当をしてくれた姿を思い出す。あの涙は王位継承者を失う恐れだと思っていたのだが、彼女の恋慕の念の方が強かったのかもしれない。
「それから、若様のお役に立ちたい一心で生きて参りました。ですから、ご家老様から若様との縁談のお話をお聞きした際には、天にも昇る気持ちでございました」
ずっと自分の目を捉えていた強いまなざしがふと伏せられた。明るい満月の光が、彼女の顔に睫毛の長い影を落とす。ややあって、彼女は短い息を吐き出した後に言葉を継いだ。
「しかし、若様はわたくしと結ばれることを望まれていらっしゃるのでしょうか。わたくしは、薬師としては多少お役に立てるかもしれませんが、女として若様に喜んでいただける術を持ち合わせておりません。ですから、もし若様がわたくし以外の方を娶りたいということでしたら」
彼女は懐から朱に塗られた護り刃を取り出し、まるで舞っているかのような優雅な動作で、鞘から抜いた。切っ先が月の光を反射して怪しくきらめく。彼女が刃をその細い喉に向けたところで我に返り、飛びかかって押し倒した。放り出された刃が弧を描いて遠くの地面に刺さった。
「…危ないだろうが」
甘い息がかかるくらい近くに、美しい顔があった。潤んだ瞳は驚いたように見開かれていて、何が起こったかわからないようだった。
よもや、目の前で自害しようとするとは。思わぬ一面を見せつけられて、思わず笑いがこみあげてきた。
この女は、冷血ではない。自分への情熱を隠すために、普段は平静を装っているが、本当は激情の持ち主なのだ。
こんな女は見たことがない。以前からわずかに抱いていた興味が突然膨れ上がり、彼女のすべてを知りたいという欲望が胸の内を支配した。「お前、面白い女だな」
「どういう意味でしょうか」
「飽きない女は好みだ」
「…では、わたくしでよろしいのでしょうか」
震える声で投げかけられた問いに答えず、唇を重ねた。
顔を離すと夢を見ているかのように恍惚とした表情がそこにあり、一気に欲情がかきたてられた。
…初夜には一日早い。
先ほども思い浮かんだ考えが脳裏をよぎったが、腕の下から立ち上るかぐわしい香りと熱が理性のともしびを吹き消した。
襟に手をかける。薄紅色の着物の地紋と、その下の白い肌が銀色の光の中に浮かび上がった。
「死体がなくとも桜は咲くだろう」
「乙女の血でも、よろしいかと」
艶やかに微笑んだのち、彼女は瞳を閉じた。吸い込まれそうな美しさに抗うことはできなかった。
「…で、なんでおふくろはこの木を親父にやろうと思ったんだよ」
満開の桜の下で毎年同じ問いを投げかけられるのは恒例行事となっていた。
息子は、かつて胸を焦がした夫と瓜二つに成長していた。
自分が抱いた恋情を、知っておいてもらいたい気がした。将来、彼が恋をしたときに、何かの足しになるかもしれない。そして、自分が儚くなっても、この世界に生きた意味を残しておきたいと思った。
「そろそろお話ししてもいい時期なのかもしれませんね」
隣で夫が驚いたように目を開いた。うっすら微笑んで、彼の不安をいなす。やがてあきらめたように、夫の視線は外方に向けられた。
「わたくしは、あなたのお父様に恋焦がれていました。幼いころから、ずっと」
語り始めると、当時の感情がみずみずしくよみがえり、いろいろな場面に話が及んだ。
大怪我をして安静中だった夫が女と密会して帰ってきたときは、あまりの悔しさに消毒薬と見せかけた麻酔を塗りこんで、三日三晩寝たきりにしてやった、という逸話を披露したところ、「ああ…あれはお前の仕業だったんだな」と夫が眉間に皺を寄せた。どうやらこれまで明かしていなかったようだ。すっかり忘れていた。
結婚前夜の胸の高鳴りは今でも覚えている。月明かりの下、特別にしつらえた振袖の懐に短刀を忍ばせ、夫とふたりでこの場所まで来る間、その時間が幸せの絶頂だと思っていた。死んであの世で結ばれるという神話を信じ込んでいた自分がいかにも少女でおかしい。
あの時感じていた幸せは、身震いするような、背徳感に心が躍っているようなものだった。今抱いている温かい感情は、あの時の感情とはほど遠い。興奮はないが、優しくて、すべてを覆うような心地よさだ。
「わたくしは苗木を植えて、お父様に言いました。『桜を見事に咲かせる方法をご存知ですか?根元に死体を埋めるのだそうです』と。これがこの桜にまつわる話です」
「…はあ?」
息子とはあの時の夫とまったく同じ反応をした。隣の夫は、安堵なのか呆れなのかわからないため息をひとつついた。
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