2014年3月28日金曜日

SS: 四季の桜

久々に新作を書いてみました。『100万通りの『好き』』の続きです。
クオレの存在が悩みの種になってしまうふたり。曖昧な関係に終止符を打つ話ですが、なんだかちょっとお館様が情けなくなってしまったかも…リディアが好きすぎるせいということにしておいていただけると…。すみません。

2014/4/1 あとがきを追記しました!(リンク)



『四季の桜』

エッジがベッドにクオレを寝かせたのを見計らって、リディアは毛布をかける。ベッドに横たわらせても起きる気配がないのを見て、安心する反面、少し気の毒な気分にもなる。エッジが「クオレが眠りにつくまで帰らない」と言っていたのを逆手にとって、彼と一緒にいられるように朝まで起きていようと試みたクオレだったが、昼間活発に遊んだために、いつもよりも早く眠ってしまったのだった。
音を立てないようにして寝室のドアを閉める。
エッジが食卓の椅子を引いて座ったのを見て、リディアは安心したような、緊張したような、複雑な気持ちになった。彼がもう少しここにいてくれるということがわかったからだ。
自分たちの間でクッションとなってくれているクオレがいなくなって、リディアは少し息がつまるような感じを覚えた。エッジとふたりになると、何を話せばいいのかわからなくなってしまう。クオレが来る前はこんな感情を抱くことがあっただろうか?思いを少し巡らせた程度では、思い出すことができなかった。
リディアはテーブルの角を挟んだ横に座った。エッジは先ほど入れたお茶のカップを傾けた後、ふっと口元を緩めた。
「クオレはお前に似て素直でいい子だな」
「そうかなあ。機転がきくところはエッジに似てると思う」
その答えに、彼は苦笑した。
「オレたち、親バカみたいだよな」
リディアもつられて笑う。
「ほんと。世の中の親はみんなこうなのかな?」
「セシルは親バカっぽい気がするぜ」
セシルに悪いと思いながらも、リディアは吹き出した。ただでさえ優しい彼がセオドアに接する姿は親バカと言われても仕方ないような気がする。セオドアが生まれたばかりの頃は、それこそ目に入れても痛くないほどかわいがっていて、時折ローザにたしなめられていた。
エブラーナ土産の緑色のお茶はぬるくなっていた。リディアがカップから口を離したところで、エッジが軽やかな声音で提案した。
「今度、エブラーナへ遊びに来いよ。もうすぐ桜がきれいな季節だ」
「ああ、いいねえ。クオレに桜を見せてあげたい」
以前見た桜を思い出す。煙るような桃色の梢が揺れると、まるで波のようだった。花びらを散らす姿も幻想的かつどこかはかなげで、目が離せなかった。
エッジが椅子を引く音でリディアは現実の世界に戻された。もう帰らなければいけないのか。そう思うと、何かから解放されたかのような気持ちが芽生えると同時に、胸にぎゅっと痛みを感じた。
「じゃあ次はエブラーナでな」
うなずいてリディアは意を決したように震える声を紡ぎだした。
「エッジ」
言葉を継ごうとした瞬間、エッジの両腕に抱きすくめられる。心臓が跳ね上がって、そのまま口から飛び出してしましそうだった。
いつもエッジが帰る前には、抱きしめられて、額に唇を当てられる。それが別れの儀式だと知っているのに、いつまで経っても慣れることができなかった。おずおずと背中に手を回す。
通常なら額にキスをされるくらいのタイミングで、すうっとひとつ息を吸い込んだエッジの声が耳元で聞こえた。
「さっき何か言おうとした?」
「…なんでもないの」
すると、予想していた行為がなされる前に、エッジの体が離れた。ずきんと胸から全身に痛みが走る。
「まだ寒いからあったかくして寝ろよ。おやすみ」
「ありがとう。帰り道、気を付けてね」
エッジは朗らかな笑顔でひらひらと手を振って、振り返ることなく出て行った。
扉が閉まる。静寂が全身を包む。
そのままリディアは糸の切れた人形のように、へなへなと床に膝をついた。
…なんで今日はキスしてくれなかったの?

帰り道、エッジは鬱々とした気持ちでバロンへ歩を進めていた。
明日の朝、シドの弟子が物資とともに、エブラーナまで飛空艇で送ってくれることになっているので、実はあと数時間はミストにいることができた。しかし、そうしなかった。
−−−リディアはエッジのこと好きか?
クオレの無邪気な質問に対し、答えに窮するリディアの姿が思い出される。
あのときはリディアを助けるために適当な口上を述べてしまったが、彼女の態度は押し付けられる好意を拒絶できない気持ちの表れであるとエッジは受け取った。
−−−機転がきくところはエッジに似てると思う。
あの発言は、まるで自分をクオレの父親として認めてくれたような言葉だった。
しかし、昼間の出来事を踏まえると、クオレの父親として、そしてリディアのパートナーとして自分が受け入れられたなどという楽観的な考えはできなかった。
リディアを抱きしめて、キスをしても、彼女は抵抗しない。クオレを大切に思うがゆえに、本当の気持ちを押し殺して、クオレがなついている自分につきあっているのではないだろうか?
近づけば近づくほど、彼女の気持ちがわからなくなる。そして知るのが怖くなる。だから彼女が言葉を発するのを見計らって抱き寄せ、言葉を遮った。彼女の気持ちを無視して好意を押し付け続ける自分に嫌悪感を覚え、額へのキスができなかったのだった。


立ち上がったリディアはやっとの思いで椅子に腰掛け、テーブルに頬をついて大きなため息をついた。テーブルの上には冷えた緑茶が残ったふたつのカップが置かれたままだ。
自分は、彼の様な深い愛情を持っていない。そのことがリディアの心を苛んでいた。
エッジが自分やクオレに向ける親愛の情は、見返りを要求していない。彼の献身的な行動は、山奥でひっそりと暮らす自分たちが幸せに暮らすことが自分の幸せだと言わんばかりである。
自分がクオレを育てているのは、本当の愛情に基づくものなのだろうか。エッジの行動を見ているとそんな疑念が湧いてくる。セオドアを育てるセシルとローザ、アーシュラを育てるヤンとシーラの真似事がしたかっただけではないのか。周囲に大人として認めてほしくて、子供を持つということでその欲求を満たしたかっただけではないだろうか。
---オレは、リディアが好きだ。
まっすぐな瞳できっぱりと宣言した彼に対して、利己的な自分は、何か答えられるのであろうか。エッジは百万通り『好き』の形があると言ったが、自分の『好き』はそのうちにも入らない、ただの自己満足なのではないだろうか。
…なんで、キスしてくれなかったの?
先ほど抱いた疑問を反芻する。自分の浅はかさへのささやかな警告なのだろうか。考えても考えても、答えには近づけないような気がした。


クオレは初めて見る異国の地の風景に飽きることがないようだ。周囲の風景を見逃すまいとして、きょろきょろと頭を振って、辺りを見回している。
エブラーナの城下町は活気に溢れていた。先の戦いで、暴走したイフリートによる被害を被ったが、破損した建物はほとんど元に戻りつつああった。桜は八分咲きといったところで、梢はまだらな薄紅色になっている。冬から心躍る春への季節の変化もあってか、人々の顔が明るい。住民の中には自分の顔を覚えている者も多く、老若男女問わず、彼らは一様に屈託のない笑顔で挨拶をしてくれるのであった。
「リディア様、こんにちは!」
城へと向かう途中、十歳ほどの少女に声をかけられた。以前、エブラーナに来た際にも会ったことがある。リディアは微笑んで軽く頭を下げた。
「こんにちは。元気そうでよかった」
クオレの背中を押すと、やや不器用ではあるが笑顔を浮かべて、彼女もリディアにならった。
「こんにちは。初めまして。クオレです」
「こんにちは。こちらこそ初めまして。リディア様のお嬢さんですね」
はい、とクオレがうなずく。少女はクオレの小さな手を取ってよろしくね、と笑顔を向けた。
「リディア様、お待ちしておりました」
やりとりを眺めていたところ、後ろから凛とした声で名前を呼ばれた。エッジの部下のイザヨイが膝をついて平伏していた。リディアは慌ててイザヨイの横にかがみ込んだ。
「イザヨイさん、やめてください。頭を上げて」
しかし、と反論しようとするイザヨイの腕を引いて、立ち上がるように力を込めた。リディアに対しては礼を尽くすことが無礼になると察したのか、イザヨイはリディアの手を取り、すっと立ち上がった。
「お館様からご案内するように申しつけられております。こちらへどうぞ」
イザヨイの視線がクオレに移る。楽しそうに語りあっていた少女にクオレは「またね」と言って、リディアの手を握った。

イザヨイが案内してくれた先は、城内の一室だった。大きな窓があり、分厚い石造りの建物の中でも明るい。清潔なリネンに覆われたベッドがふたつ並んでいたが、ひとつでも十分ふたりで休めそうな大きさのように感じられた。
テーブルの上には赤紫色と白のフリルのような花びらを持つ花が飾られていた。イザヨイによると、牡丹という花らしい。エブラーナ城は見た目の壮麗さよりも合理性を優先した作りになっているので部屋の装飾は華美ではないが、それ故に花瓶の華やかさが引き立っていた。
部屋へ案内する際、イザヨイはこのフロアの突き当りにある階段までリディアとクオレを連れて行った。
「この階段を上ると、お館様のお部屋です」
彼女の説明にクオレは目を輝かせた。
「エッジの部屋か?」
クオレの様子にイザヨイは顔をほころばせて頷いた。
「はい。今は公務でご不在ですが、おふたりはいつでも訪ねて来られるようにとのことでした。ご夕食もお館様のお部屋でご一緒にと」
「エッジとずっと一緒にいられるんだ!」
無邪気に喜ぶクオレが微笑ましい。本当にこの子はよくエッジになついていると再確認した。
しかし、自分はどういう顔をしてエッジに会えばいいのだろう。先日の別れの場面を思い出して、リディアは少し憂鬱な気分になった。はしゃいでいるクオレとは対照的だった。

エッジの部屋は昔と変わっていなかった。
自分たちが今いるスペースは、客人を迎えたり側近と打合せをしたりという機能も果たしているようで、七、八人程度が着席できるテーブルと、文机が置かれていた。部屋は扉で区切られており、その先がエッジの寝室だということをリディアは覚えていた。
三人ではやや大きいテーブルの隅で、クオレが箸と格闘している。テーブルの短辺にクオレが座り、その両端にリディアとエッジが向かい合って座っていた。
「別に箸なんか使えなくていいぞ。無理するなよ」
エッジの言葉が耳に届いているのかどうか、クオレは真剣な顔で箸を持った右手をぎこちなく動かして目の前の食べ物をつかもうとしていた。かぼちゃを二本の棒の上に乗せて恐る恐る口に運ぼうとするが、途中で橙色の煮物は白いテーブルクロスの上に落ちて、薄茶色の染みを作った。
恨めしそうにそれを見やるクオレ。エッジは煮物を箸で持ち上げ、クオレの口の前に差し出した。
「…エッジと同じ食べ方がしたい」
かぼちゃを咀嚼したあと、クオレはぽつんとつぶやいて果敢にもまた箸を手に持つ。
「一日でなんとかなるもんじゃないし、そのうちできるようになるから心配するなって。せっかくのご馳走が冷めちまうから、ほら」
スプーンとフォークを指差され、クオレは不本意そうに顔をしかめたが、空腹だったからか大人しく箸を置いた。苦笑して彼女の肩を撫でようとすると、ふいにクオレの背中に伸びてきたエッジの指先に自分の指先が当たって、思わず手の動きを止めてしまった。エッジの方に視線を移すと、目が合って、おかしそうに吹き出した。
食卓には野菜を中心とした、色とりどりの食材がたくさんの小さな皿に盛りつけられて並べられていた。これがエブラーナ式だと以前エッジに聞いたのだが、繊細な味付けのおいしいものを少しずつ食べられるのは贅沢なことだと感じていた。
「クオレ、おいしい?」
リディアの問いかけにクオレは口を動かすのを止めずに首を何度もうなずかせて答えた。
「今日はオレを待ってる間何をしてたんだ?」
エッジの質問にリディアが答えようとした瞬間、クオレはごくん、と口の中のものを飲み込んで、勢い良く答えた。
「イザヨイさんに案内してもらって、城の中と街を見て回った。あと、エブラーナの子たちと遊んだ」
「クオレ、お友達ができたのよね」
リディアの言葉にクオレは嬉しそうにうなずいてエッジの方を向いて報告を始めた。
「エブラーナの本が特におもしろいんだ。見たことがない字が書いてある」
城に到着した時に挨拶をしてくれた少女が率先して、クオレを他の子供たちと一緒に遊ばせてくれたのだった。リディアはその様子を眺めたり、時折輪の中に加わったりして過ごした。
「エブラーナの遊びも楽しい。みんなで大縄跳びしたり、手裏剣飛ばしたり。明日も遊ぶ約束をした」
「間違っても忍術とか教えてもらうなよ」
エッジは苦笑していたが、クオレは律儀に「はい」と返事をした後、真剣な表情でエッジに向き直った。
「エッジ、今日の夜は一緒にいられるんだろう?」
イザヨイさんが言っていた、という言葉にエッジは「もちろん」と答えた。
「じゃあ本を読んでくれるか?」
「ああ。早く飯を食べて、風呂入ってこい」
クオレは嬉しそうにうなずいて、付き添うことになるリディアを急かした。

…親子って、こんな感じなのかな。
エッジの部屋のベッドの上で、うつぶせになって絵本を読むエッジと、その横で同じくうつぶせになって聞き入っているクオレの姿を見て、リディアはそんな感想を抱いた。
リディアはベッドの横に置かれた椅子に座って、ふたりの様子をぼんやり眺めていた。
賓客用の浴場はエッジの部屋に続いていた。イザヨイが用意してくれた夜着は浴衣で、リディアは少し苦戦しながらもクオレに着付け、自分も着た。イザヨイがそんなに難しく考えなくて大丈夫ですよ、と言ってくれていたのだが、これで正しいかは大いに不安だ。帯一本で全身の衣類を支えられるか心もとなくて、リディアはストールを羽織って上半身をすっぽりと覆い隠した。
そんなリディアの気持ちを知るはずもなく、クオレは無邪気にエッジの隣に寝転んで絵本を眺めている。リディアは少し手持ち無沙汰な気がして、何度も大きな布で髪の毛の水分を拭き取っていた。
親子がこんな微妙な距離なわけない。リディアは先ほど思い浮かんだ考えをすぐに否定した。きっと本当の親子だったら、もっと自然に三人でいられるはずだ。例えばセシルとローザとセオドアだったら、セシルとセオドアが語るのをローザは見守って、時折口を挟むのだろう。しかし、今のエッジとクオレには、自分が入り込む余地がないような気がしてしまう。それは自分とエッジの間にある微妙な距離感のせいだと思う。
「リディア、リディア」
クオレの声で、リディアは自分の中の思考の世界から外界に引き戻された。ベッドの上から手招きしている彼女の近づく。
「この本おもしろい。海の中にお城があるんだって。一緒に見よう」
うん、と返事をして座っていた椅子を持ってくると、クオレが頬を膨らませて不満そうである。彼女は自分の身をエッジの方に寄せて、空いたスペースをぽんぽんと叩いた。
「ここに来て」
無邪気な要請に困惑しながらも、リディアは体を横たわらせた。ベッドは三人並んでも十分な大きさだったが、エッジがすぐ近くにいると思うと、ぎこちなくなってしまう。そんなリディアの心の中を知るはずもなく、クオレは満足したかのように微笑んだ。
クオレは本の美しい絵に夢中になっていたが、長距離移動の後に思いきり遊んだためか、やがてうつらうつらと船をこぎ始めた。しばらくすると穏やかな寝息が聞こえてきたので、そこでエッジが本を閉じた。
クオレが眠ってしまったとなると、三人で並んで寝転がっている今の状況がさらに奇妙で、リディアは居心地の悪さを感じた。
エッジは本を手に取り、寝ころんだまま腕を伸ばしてすぐ横に置かれた小さなテーブルの上に乗せた。そしてクオレとリディアの方に向き直ると、ひとつ息をついた。そのまま神妙な顔で黙っているので、リディアは思わず問いかけた。
「どうしたの?」
「いや」
珍しく歯切れが悪い。首をかしげると、彼は微かに口の端を上げて、かぶりを振った。
「なんでもない」
そう答えてエッジはクオレの頭に手を伸ばす。大きな手で幾度か撫でられても、クオレは起きる様子もなく穏やかな顔で眠っている。かわいい寝顔だ。リディアは幸福な気持ちで彼女の頬にそっと指の横で触れた。
クオレから伝わってくるほのかな熱と、清潔なリネンの香りが心地よくて、リディアは思わず小さなあくびをこぼした。それを見ていたエッジが苦笑して、半身を起こした。
「リディア、お前も疲れてるだろ。今日は休めよ」
「うん」
眠気を指摘され、自覚してからは一気に睡魔が優勢となった。ベッドのほのかな温かさが心地よくて離れがたい。どのくらいの時間が経ったのか、エッジがベッドを降り、クオレを抱き上げたところではっと目が覚めた。
「ほら、部屋に戻るぞ」
このまま眠ってしまってはいけないのか。先ほどまでの居心地の悪さはどこへやら、恨めしさを覚える。リディアは緩慢な動作で身を起こし、自分たちの部屋まで先導するエッジをのろのろと追った。
エッジがクオレをベッドの上に寝かせる。リディアは目をこすりながら、自室に戻るエッジを見送った。
いつもの別れのときのように、抱きしめられるのだろうか。その時間が訪れるのをしばらく待ったが、彼は自分に触れすらせず、うっすらと微笑んで眠りにつく前の言葉を述べた。
「おやすみ」
「…おやすみ」
リディアはエッジが去って行ったドアの前からしばらくの間動けなかった。以前会ったときと同じように。
…私、何を期待してたんだろう。
冷静さを取り戻した途端浮かんだ疑問に、リディアは全身が熱を帯びたのを感じた。
先ほどまではあれほど睡魔と戦っていたのに、クオレの横に体を滑らせても一向に眠気がやってくる気配がなかった。

幸せだな。
クオレとリディアが自分のすぐ横で眠る光景を見て、エッジは心からそう思った。
想像していたよりもずっと幸福で、知りたくなかったと感じた。気づいてしまったら、この幸せを得たいという欲求を抑えきれなくなってしまいそうだった。
近くにいるための方法はどうにでもなると思っている。問題は、リディアが自分と一緒に過ごしたいと願っているかという点だ。
自分の欲求が大きくなりすぎてしまうと、リディアの意思を無視して強硬手段に訴えてしまうのではないかという危機感を抱いていた。これまでの十数年で蓄積された彼女への思いは狂気にも近く、いつ制御不能になるのか知れなかった。今彼女に触れるのは危険だ。直感がそう訴えていた。
エッジの冷静さを保つために、リディアはクオレと一緒にいるのかもしれない。鬱屈した心情は、ありえそうもない被害妄想を呼び起こす。テーブルの上に置かれた酒瓶をあおり、エッジはリディアのぬくもりと香りが残るベッドに身を投げ出した。眠れない夜になる予感がした。


リディアは城内に与えられた部屋の中で、ひとり静かに本を読んでいた。
ふと顔を上げて窓から空を仰ぐと、日がだいぶ傾いている。昼食のあと、クオレは昨日と同じようにエブラーナの少女たちと遊びに行った。目に入る場所にいたところ、どこからともなくイザヨイがやってきて、クオレの監視を申し出てくれた。正直なところクオレがいようといまいとリディアには本を読むくらいしかやることがないのだが、せっかくなので申し出に甘えることにした。
もう一度本に目を落とすと、ドアをノックする音がした。はい、と返事をしてドアに小走りで駆け寄って開けると、エッジが立っていた。
「あれ、クオレは?」
開口一番、エッジは部屋の中を見渡してクオレの姿が見えない理由を確認した。
「昨日と同じ子たちと遊んでるの。イザヨイさんが見てくれてて」
彼はふーん、と感情がうかがえない返事をしたが、気持ちを切り替えたかのように、次の行動を提案した。
「じゃ、散歩でも行くか」
「クオレがいないのに?お仕事抜けてきたんでしょ?無理しなくていいのに」
エッジが忙しい中、無理矢理時間を割いていることはわかっていた。なるべく邪魔をしたくないという思いからそう発言したが、エッジはやや憮然とした表情で答えた。
「たまにはいいだろ。大人どうしの会話も」
「でも…」
「いいから。行くぞ」
有無を言わさぬ口調でエッジは踵を返す。慌ててそれを追う。
エッジの部屋を経由して、細い通路から城の外へ出た。途中誰にも会わなかったので、隠されている通路なのかもしれない。エッジの部屋に入った瞬間、この後なにが起こるのだろうかといろいろな考えを巡らせて身体が固くなったが、そのまま通路に抜けたので気づかれないように安堵の息をついた。
城と城下町を取り囲む堀の横の道を歩く。リディアはぐるりと周囲を見渡して、このあたりは桜が少ないのだということを知った。
会話らしい会話もないまま、肩を並べて歩く。間が持たない。そんなことを思っていたら、エッジがふいに口を開いた。
「オレたち、クオレが来る前はどんなこと話してたっけ?」
まさに自分が考えていたことで、リディアは息をのんだ。
「なんだったっけ」
しばらくして、リディアはある場面を思い出し、苦笑した。
「ここは天国じゃねえよな?って。久しぶりに会ったとき」
「あれ会話っていうのかよ」
エッジも苦笑して、空を見上げた。春の空はどこまでも透き通った淡い青だ。
やがて彼は水をたたえた堀の土手に足を向け、少し下ったところで腰を下ろした。リディアもそれをならって隣に座る。
堀の水は流れているのか止まっているのかわからなかった。水面に時折波紋が広がるのは魚だろうか。
どこからか楽しそうな鳥のさえずりが聞こえてくる。無言の時間に耐えられなくなったかのように、エッジはふうっと長い息を吐き出して、手を頭の後ろで組んで寝転んだ。
「大人の毎日って代わり映えしないよなあ」
彼の表情をうかがうと、自嘲気味な笑みが張りついていた。
「エッジでもそう思うの?こんな大きな国の王様なのに」
リディアは心からの疑問を口にした。エッジはちらりとリディアの方に視線を向けた。
「政治ですら、単調な繰り返しに思えてくるんだよな。書類見たり、人と話したり、儀式に参加したり」
そこまで言ってエッジはすぐ横の草をむしって、空に放った。緑色と褐色の混じった細い葉は、ひらひらと空気抵抗を受けながら地面に落ちていった。
「そんな中に毎日成長する子供って存在がいたら、目が離せないし、全部の話題をかっさらって、大人の間に会話がなくなるのは当たり前だよな」
本気とも冗談ともつかないエッジの発言に、どう返答すべきか悩み、リディアは短いため息をついた。彼の言っていることもわかるが、もしそうだとしたら、クオレがいなかった頃の自分たちは何を話していたのだろう?思い出そうとするが、はるか昔のことのように、その部分の記憶に靄がかかっている。
また会話が途切れた。春の野原は鳥の声や水音、風に揺れる草のざわめきでにぎやかで、無言の時間を埋めてくれる。
視線を横で寝ころぶエッジに移す。眠っているのかは定かではないが、瞳は閉じられている。涼しさを感じさせる整った造形だな、とリディアは改めて思った。目尻に刻まれた細い皺は彼の朗らかな笑顔の名残のようで好ましい。まるでクオレの寝顔を見ているときのような温かなものが胸の中に広がっていくのを感じた。
右目の上を走る刀傷が目に入り、少し胸が痛んだ。思わず指の背で傷跡を撫でると、エッジはびくりと全身を跳ねさせ、瞳を開けて身を起こした。リディアにも彼の驚きが伝わって、手を引っ込めた。
「ご、ごめん。寝てた?」
エッジはしばらく無言で地面を見つめていたが、やがてとがった声でリディアを非難した。
「…お前さ、人類みんなをクオレだと思うなよ」
「そんな風に思ってない」
自分の心を見透かされたようで焦りながらあわてて否定するが、エッジは呆れ顔のまま更に疑問を投げかけてきた。
「じゃあどういう気持ちだったわけ?オレに触るとき」
思わぬ問いかけに、リディアは言葉をつぐんだ。エッジはなぜこんなことを聞いてくるのだろう?彼が何を知りたいのかわからなかったし、彼の求める答えに辿り着けそうにもなかった。
やがてエッジは答えを得ることをあきらめたように、長い息を吐き出して立ち上がった。
「帰るか」
リディアを振り返ることもなく、歩き出そうとする後姿が胸に鋭い痛みが走らせる。あわてて立ち上がり、彼を追う。
帰り道はふたりとも口を開かなかった。空は橙色に染まりつつあった。


何度目かわからない寝返りを打ちながら、エッジは数時間前の出来事を思い出して忸怩たる思いに駆られた。自分の質問に答えられないリディアの今にも泣きそうな困った顔を見て、一瞬でも苛立ちを覚えた自分が許せない。
彼女はちょっとしたいたずら心で自分に触れたのだろう。それなのに、その行為に意味を求めてしまったことを後悔していた。下心にまみれた自分と彼女は違うというのに。
夕食のとき、リディアとは目が合わせられなかった。クオレの一日の出来事に耳を傾けるふりをしながらも、脳内には何もとどまっていなかった。
あの時、自分は浅い眠りをたゆたっていた。昨日の夜一睡もできなかったことが嘘のように、穏やかで幸せな眠りがあの短時間で訪れたのだった。それはきっとリディアのおかげだった。彼女と取り留めもない話をしただけで満たされた気持ちになり、夢の世界へと旅立つことができたのである。
幸福な時間を思い出していたその時、部屋のドアが叩かれた。まさかと思い、素早く身を起こしてドアに近づく。
ドアを開けるとそこには険しい顔をしたクオレがひとりで立っていた。エッジは期待外れだと思ってしまった自分を責めながら、しゃがんで彼女と視線を合わせた。
「どうした?」
赤い目のクオレはかぶりを振って、エッジの首に腕を回した。
「今日はエッジと一緒に寝る」
エッジは思わず苦笑して、クオレを抱き上げた。肝心の恋い焦がれる女からはけんもほろろに扱われながらも、彼女の子供には好かれているらしい。
ベッドにもぐると、クオレはエッジの左腕に両腕を絡ませてきた。体温が高い。
「なんでこんなに近くにいるのに、三人で一緒にいられないんだ?」
くぐもった声は震えている。自分の腕にぴったりと沿われているため表情はうかがえないが、泣いているようだった。リディアと何があったのだろうか。エッジはいぶかしく思いながらも、彼女の頭を撫でた。
「少ししたらまた離れ離れになっちゃうのに」
エッジは苦笑した。クオレの言う通りだった。リディアの気持ちを慮るふりをして、くだらない意地を張っていた自分に気づいた。手を彼女の頭から小刻みに震える背中に移動させ、ゆっくりと上下にさすった。
「クオレはずっと三人で一緒にいたい?」
クオレはうなずいて、腕から顔を離してエッジを見上げた。
「明日は三人で桜を見に行こう」
クオレは泣きそうな声で提案した。「ああ」と返事をすると、泣きはらした目から険しいものがなくなり、安心したようにもう一度腕に顔をうずめた。
しばらくして、クオレが眠りについたのを確認し、起こさないように注意しながらエッジは横のテーブルの酒瓶に空いている方の手を伸ばした。今日も眠りは訪れそうにない。


クオレが出て行ったドアを見つめて、リディアは肩を落とし、つい先ほど起こった出来事に思いを馳せていた。
「エッジの部屋に行こう」
風呂から上がったあと、クオレはそう言ってリディアの腕を引いた。昼間のことで気乗りがせず、どうするべきか逡巡していたところ、クオレの目が悲しそうに伏せられた。
「リディアはエッジと一緒にいたくないのか?」
「そんなことないわよ」
慌てて否定すると、クオレは疑わしげな視線を投げかけてきた。
「じゃあなんで昨日一緒に寝なかったんだ」
どうやら昨日眠っている間に自室に戻されたことが気に食わなかったらしい。リディアは無邪気な問いかけに返すべき言葉を見失った。
「一緒にいたかったのに」
無言でいる間に、クオレが震える声で訴える。リディアはかがんでクオレの瞳を見つめた。
「…あのね、クオレ。私とクオレは家族だけど、エッジは家族じゃないの」
なんとか説明しようと紡いだ言葉は、思いのほか自分の心に突き刺さるものがあった。
リディアの胸の痛みが収まる前に、クオレは目を吊り上げて抗議した。
「家族じゃなきゃ、一緒にいられないのか。だったら家族になりたい」
娘からの提案は衝撃的なものだった。これまで見ないようにしていた現実を突然直視させられた。
いつも自分は逃げていたのかもしれない。エッジを愛するクオレ。クオレを愛するエッジ。ふたりの間に挟まって、自分はのらりくらりとクオレの親という権利だけを訴えて、三人の関係を進展させようという発想に至らなかった。
クオレの瞳には涙が溜まっているように見える。クオレを抱きしめようと腕をのばしたがその手を払われ、リディアはその場に尻餅をついた。
クオレは袖で涙を拭って、部屋を飛び出して行く。その後ろ姿がエッジの部屋の方向に消えたのを見てリディアは追うのをやめ、ドアを閉めた。
ふらふらと歩みを進めて、ベッドに身体を投げ出す。
家族になりたい。
クオレの言葉が刃物となってリディアの全身を切り刻むようだった。それがクオレの偽らざる希望なのだろう。その気持ちにこれまで気づけなかった自分が恥ずかしい。
リディアは深呼吸をして、灰色の石の天井を見上げた。まるで熱にうなされているときのように、存在するはずのないどす黒い渦のようなものが見える気がする。
家族とはなんだろうか。あの時、ふいに口をついて出てきた言葉をリディアは思い浮かべた。
自分にとっては母、幻獣王夫妻、クオレが家族だった。母以外に、血のつながりはない。それでも幻獣王夫妻やクオレはかけがえのない存在であり、家族以外の名称が思い浮かばなかった。
クオレが望むように、エッジと家族になるためには、どうすればいいのだろうか?すぐに思い浮かんだのは結婚という形だった。脳裏にセシルとローザ、ヤンとシーラ、幻獣王と王妃の姿が次々に浮かんで消えた。しかし、どの夫婦も、夫婦という関係が基礎となっているのではないか。その上で、セシルたちにはセオドアが、ヤンたちにはアーシュラという子供がいる。そして、幻獣王夫妻には子供がいない。
子供が望むからという理由で、夫婦になる契約を結び、家族となることに意味はあるのだろうか?
久しぶりにひとりで過ごす夜は永遠にも思えた。

薄紅色の無数の花を見上げるクオレは始終笑顔だった。
昨夜のことがあったので寝不足のリディアはクオレに会う瞬間に緊張していたのだが、朝、エッジに連れられて部屋に戻ってきた彼女は上機嫌で、「お花見に行こう!」とリディアを急かした。
いつものように、クオレの左手をエッジがつなぎ、右手をリディアがつなぐ。今が盛りと咲き誇る桜の並木道は花見客で賑わっており、エッジの姿を認めると会釈をしたり、話しかけてくる者も多かった。その度に、エッジは律儀にリディアとクオレを相手に紹介する。
「こっちは昔の仲間のリディア。で、娘のクオレ」
慌てて頭を下げると、人々も頭を下げ返した後、優しい笑顔でリディアとクオレを順番に見つめた。
エブラーナの人々は礼儀正しく、快活だと思った。エッジはこんな国民の中心にいる存在で、この雰囲気を作り上げることに人知れず骨を折っているのだろう。尊敬のまなざしで彼の横顔を見ると、物思いに耽っているような沈んだ表情で、リディアは息を飲んだ。
リディアの視線に気づいたエッジと視線がぶつかったときには、彼の表情に陰は見られなかった。気のせいだったのだろうか。
朝持たされた弁当を、大きな桜の木の下で広げて食べた。クオレは箸の使い方がだんだん上達してきているとエッジにほめられて嬉しそうだ。
「桜がずっと咲いていればいいのに」
ぽつんとクオレがつぶやいた。
「それでずっとお花見ができればいいのに」
どことなく寂しそうなクオレの表情に、昨日の彼女の言葉が思い出される。どう返すべきか悩んでいる間に、エッジがクオレの頭をぐるぐると撫でた。
「ずっとあったらありがたくなくなるもんなんだよ」
クオレは不満そうに唇を尖らせて、エッジに反論する。
「でも嫌いになるわけじゃない。毎日お花見ができたら、桜のいろんなところが見られてもっと好きになると思う」
大人びた発言に、リディアは娘の成長を思った。エッジも感心したらしく、満面の笑顔でクオレの主張に応じた。
「確かに。いいなあって思うものがずっといてくれるのに、ありがたくなくなるなんて考えの方が不遜かもな」
「ふそんってなんだ?」
クオレは知らない言葉に反応し、すかさずエッジに質問を浴びせかけた。エッジはクオレを膝の上に乗せて説明を始めた。


「クオレ、ちょっとリディアとふたりで話したいんだ」
花見から城へ戻って、夕食が終わったあと、エッジがクオレを見据えてそんなことを言い出した。
リディアは焦ってクオレの表情をうかがった。昨日、三人でいたいとごねられたばかりである。ところが、クオレが大人しく、「わかった」とうなずいたので、リディアには驚きだった。
「ありがとな」
エッジは笑顔でクオレの頭に手を乗せた。クオレはもう一回うなずいて風呂に入る、と部屋を出て行った。
エッジは立ち上がって、リディアにも笑顔を向けた。クオレに向けるような優しい微笑み。促されるように立ち上がる。
「夜桜でも見ながら話そう」
エッジが自分の手を掴む。驚いて反射的に手を引こうとしたところ、強い力がそれを阻んだ。先日城を抜け出すときに使った通路ではなく、正面から外へ出るらしい。
「話ならクオレが眠った後でもよかったのに」
廊下を歩きながら抗議すると、エッジは苦笑しながら持論を述べた。
「子供から選択肢を奪うことは、大人のするべきことじゃない。選ばせることが大事なんじゃないか。だからクオレに聞いた」
「…なんだかちょっと大げさね」
そう言いながらも、彼の持論には同意できるところがあるとリディアは感じた。
城を出るまでの間、そして出てからも、エッジの姿は多くの人に気づかれているようだった。当然だ。しかし人々は昼間のように声をかけてこないし、まるで気づいていないように振舞っているように見受けられた。きっとただならぬ雰囲気を感じていたのだろう。一緒に歩きながらも彼の意図がどこにあるかつかめず、リディアは居心地の悪さを感じていた。
昼間花見をした街道とは逆方向に歩を進める。海辺の方向ではなく、バブイルの塔がある山間部の方向で、時間が遅いこともあり、人通りはほぼない。
やや歩いて、小高い丘を登ったところに、一本の桜の木が満開の花を咲かせていた。それほど大きな木ではないが、丘の上に一本だけあるという状況が幻想的な雰囲気を作り出している。月明かりに照らされてぼんやり白く輝く桜は、そのもの自体が発光しているようだった。
エッジが足を止めて自分の方に向き直ったところで、手が離れた。今までずっと手をつながれていたことに気づいてリディアは顔に血が上るのを感じた。
「クオレがさ、なんで三人一緒にいられないの?って」
「…うん、私もそう言われた」
昨夜のことを思い出して、リディアは苦々しい気持ちになった。その後、クオレに言われたあの言葉をエッジに言うべきか悩んだ。
---家族じゃなきゃ、一緒にいられないのか。だったら家族になりたい。
答えが出る前に、エッジが言葉を継いだ。
「オレが無責任にクオレに近づきすぎたせいだ。あいつの親はお前なのに」
「…そんなこと言わないで。違うよ。私がエッジに甘えすぎたの」
リディアの反論にエッジは一瞬悲しそうな笑みを浮かべたが、次の瞬間には真顔になって、リディアの視線を捉えた。
「酷かもしれないけど、お前に選んでほしい。クオレとふたりで暮らすのか。それともオレも含めた、三人で暮らすのか。もしふたりで暮らすことを選んだら、オレはもう二度とお前たちとは会わない」
突然重大な判断を迫られて、リディアは一瞬たじろいだ。しかし、クオレのことを思うと、エッジがいない生活はありえないという結論は思いの外早く導かれた。
「クオレからエッジを奪うなんてできないよ。あの子、本当にエッジのことが好きだもの」
リディアが断言すると、エッジは頭上の桜の木を仰いで大きく息を吸い込んだ。何か考えているのだろうか。リディアの方に向き直ると、いつかも見たような優しい笑顔でリディアを見据えた。
「リディア。オレはずっとお前のことが好きだった。もしクオレと三人でいられるのなら、これ以上の幸せはない」
淀むことなくきっぱりと宣言する。リディアの全身に電流が走った。心臓の鼓動が耳に伝わってくる。
「エブラーナを誰かに任せて、オレがミストに住んでもいい。一緒にいられるためならどんな手段でもいとわない」
エッジは何を言っているのだろう。言葉の意味を理解するまで時間が必要だった。
…この人は自分と娘のために国を捨てる覚悟をしている。そのことに気づいた瞬間、あまりの衝撃にリディアはめまいがした。
「なんで、なんでそんなこと言えるの…」
やっとの思いで搾り出した声は震えてかすれていた。動揺する自分に対して、エッジは真剣なまなざしはそのままに、目を細めてかすかに笑った。
「別にお前のために言ってるわけじゃない。オレの希望を伝えてるだけだ。クオレがどうしたいかもわかってる。だから最後に、リディアがどうしたいのか聞きたい。クオレにとってではなく、リディアにとって、オレの存在が必要なのかどうか」
優しい声音に、目の前がかすむ。自分の瞳からこぼれた涙がはらはらと地面に落ちていく。
エッジが自分に向けてくれていた好意をいまさらながら実感する。彼は見返りを求めずに、自分を見守ってくれて、助けてくれていた。その時間の終わりなど、想像したこともなかった。永遠に今と同じ日常が続いていくのだと思っていた。
しかし、もうこれまでと同じようにはいられないのだ。クオレの存在が、自分たちのあいまいな関係に終わりを告げた。今までの関係ではなくなってしまうことが怖いし、寂しいと思って涙してしまう自分のずるさに腹が立った。
決断しなければならない。これまで自分の人生で、このような重要な決断を迫られたことがあっただろうか?おそらくない。目の前にある選択肢の中から、そのときやりたいことを気の赴くままに選んできただけだ。クオレを育てると決めたのも、衝動的な欲求だった。今回は違う。自分の選んだ道によって、クオレとエッジの人生が変わってしまうのだ。
顔を上げると、エッジが不安そうな面持ちで自分を見守っていた。例えようのない衝動が全身を襲う。彼の胸に顔をうずめると、彼の心臓が早鐘を打っていることに気づいた。エッジも緊張しているのだという事実に、リディアは少し嬉しい気持ちになった。エッジの両腕が遠慮がちに自分の背中に回された。
「私、自信がない。エッジのように、見返りを求めずに、深くふたりを愛して、一緒にいられるのかって」
「クオレのことは愛してるだろ」
「うん。でもそれはただの自己満足なのかもしれない。自分のことを、人を愛する余裕がある人間だと思いたくて、もがいていたのかもしれない」
頭上から忍び笑いが聞こえてきた。エッジは片手をリディアの頭の上に移動させて、こわれものを扱うかのように髪の毛を梳いた。
「考えすぎだ」
聞きなれた彼の声は、顔をうずめている胸に反響して低く聞こえる。
「お前がクオレの母親になりたいって思った瞬間の気持ちはそんな理屈じゃ説明できないものだろ。言葉で説明できないそれが、愛情なんじゃないか」
自分は愛情を持っていると思っていいのだろうか。エッジに言われると自信が芽生えてくるのが不思議だった。
彼の顔を見上げる。夜の闇の中でも透き通った水色の瞳の色がはっきりと見てとれた。彼はうっすらと微笑みをたたえて、自分の答えを待ってくれている。すべてを覚悟した人はこんなに落ち着いていられるのだろうか。
強い風が吹いて満開の桜の木立を揺らし、花びらを舞わせた。風が止むと周囲は静寂に包まれて、まるで世界でふたりきりになってしまったように錯覚した。銀色に輝く大きな月が満開の桜の隙間から顔をのぞかせている。
エッジのことはどう思っているのだろう。自分自身に問いかける。
これまでの彼の献身を思い出すと、感謝の念しかない。ミストへの支援。幻獣王夫妻との関係の再構築。クオレへ注がれた愛情。その他にも、戦いや日常生活の中で、彼の存在がどれだけ自分の助けとなったことだろう。
彼がいない世界は想像できなかった。それが愛なのかはわからない。ただ甘えたいだけなのかもしれない。しかし、本能が彼を失ってはいけないと訴えかけてくるのを感じていた。そして、彼を失わないための道は、リディアにはひとつしか思い浮かばないのだった。
桜の香りを運ぶ優しい風に背中を押されるような気分で、リディアは言葉を絞り出した。
「…エッジ、今までありがとう」
骨に伝わる振動は、自分の心臓の鼓動なのか、それともエッジのものなのか、もうわからなかった。エッジは表情を変えずに泣きはらして醜いであろう自分の瞳を見つめている。リディアはありったけの勇気を振り絞って、続く言葉をつむぎだした。
「今までみたいな関係は今日で終わりにしましょう。これからは、私もエッジのために何かしてあげられる存在になりたい。…家族として」
「…え?」
エッジの笑顔が突如、呆けた顔になる。リディアはそれに構わず、行き着いた答えを口にした。
「私、クオレとエッジと三人で、家族になりたい」
「家族って」
理解できないのか、エッジは眉根に皺を寄せた。リディアは震える声で続きを述べる。
「エッジには、クオレのお父さんになってほしい。…そして、もしできたら」
リディアはそこで言葉を止めた。エッジは呆然としていたが、その表情は自分の思いが伝わっていることを物語っているようにも思えた。リディアはすうっと息を吸って、なるべく穏やかになるように努めながら、微笑みをエッジに向けた。
「私をエッジの生涯の伴侶にしてほしい」
言い終わるか否かというところで、強く抱き寄せられて、一瞬息が止まった。
「…くそっ」
先ほどまでの思慮深いエッジはどこへ行ったのか、まるで人が変わったかのように、口汚い言葉を発した。
「オレが遠慮して言わなかったことを軽く言いやがって。意味わかってんのか?」
威勢のいい台詞に反して、恨み節を連ねるエッジの声は細くて、震えているように感じる。リディアは彼の背中に回した手にぎゅっと力を込めた。
「意味くらい、わかってるよ。…なんで遠慮してたの?」
ややあって、エッジが観念したかのように言葉を継いだ。
「…一緒にいられれば、形はなんでもいいと思ってた。オレは王だから正式な結婚って方法にはめんどくさいことが死ぬほどある。お前の気持ちもわからないうちに、そんなわずらわしいものをちらつかせて、逃げられるのが怖かった」
結婚。その単語を出されても、リディアの気持ちはまったく揺らがなかった。彼の背中をさする。震えているような気がしたからだ。
「…ありがと。これからは、エッジがめんどくさいと思うことも一緒に考えさせてね」
これまで彼が傾けてくれた愛情へ、少しずつであっても報いていきたいと思う。エッジが腕の力を弱めて、体を少し離した。怪訝そうに見つめてくる視線をリディアは真正面で受け止めて、エッジの頬に手を伸ばした。
「私のこの気持ちも、『好き』のひとつの形だと信じてる」
乾燥した肌から伝わる熱が心地よいと思った。泣き出しそうな顔をしたエッジもリディアの頬に手を当て、親指を滑らせた。
「リディア…」
熱っぽい声で名前を呼ばれる。手が顎にかけられて、ひんやりとした唇が重ねられた。
顔が離れたとき、惜しいような気持ちになった。
透き通った空色の瞳に吸い込まれるようだ。胸の奥から湧き上がる衝動を抑えようともせず、リディアは背伸びをして彼の唇を奪った。
…これも好きっていう気持ちなのかな。
なぜ、これまで自分はエッジからの愛情表現を待つのみだったのだろう。胸に広がる温かさに気づいて、リディアは彼と自分の新しい関係の始まりに思いを馳せた。
ざわざわと桜の木立が震えるたびに、白く輝く花びらが降ってきた。


城へ戻ると、クオレはエッジの部屋のベッドの真ん中で眠っていた。エッジとつないでいた手を離して乱れた毛布をかけなおそうとしたとき、足をもつれさせてベッドに倒れこんでしまった。エッジが背後で吹き出したので、憮然とした顔を向けた。
クオレは目をこすってぱちぱちと何度か瞬きをした。彼女は体は横たわらせたまま、目をぱっちり開いて、まずすぐ横にいるリディアの姿を確認し、その後後ろにいたエッジに視線を送った。ふたりの姿を認めて、クオレは満面の笑みを浮かべた。
「おかえり」
「ただいま」
答える声は二重になった。
何かに気づいたクオレがリディアの顔の横に手を伸ばし、髪に触れた。彼女の小さい手が離れると、その指には花びらがあった。
「桜?」
「うん」
「きれい。桜は花びらになってもきれいなんだ」
クオレは小さな花びらをしげしげと見つめ、嬉しそうに微笑んでいる。
---毎日お花見ができたら、桜のいろんなところが見られてもっと好きになると思う。
昼間のクオレの言葉を思い出して、リディアは彼女をそっと抱きしめた。
きっと散る桜を見て、クオレは感動するだろう。その後黄緑色の芽が萌え出で、丸い緑の葉を茂らせる姿を見て、クオレはどう思うだろうか。秋の辺り一面を朱に染まらせる紅葉と落葉や、冬の寒さに耐える灰色の幹は、彼女にどのような印象を残すのだろうか。
「今日は一緒にいられる?」
不安そうなクオレの声が耳元で響いた。
「…これからはずっと一緒にいられるよ」
リディアはクオレを抱きしめる腕に力を込めた。

安らかな寝息が聞こえてくる。起こさないようにとクオレの横に静かに身体を滑り込ませると、その奥のリディアが寝返りを打って、エッジの方に身体を向けた。
「起こしたか」
彼女の瞳は部屋の中のほのかな明かりですら反射して、きらきらと輝いているように見えた。
「…うとうとしてた。夢の中でも桜が満開だったよ」
リディアはうっとりするような口調でそう言って、瞳を閉じた。
「おやすみ」
そう声をかけたが、返事はない。もう眠ってしまったのか。エッジは苦笑し、手を伸ばして彼女の頬を撫でた。
しばらくエッジはリディアとクオレの寝顔を見つめていた。十年以上夢見ていたことが、このような形で現実になったことが信じられない。
明日からは忙しいだろう。リディアとクオレと暮らす方法を、真剣に考えねばならない。少し考えただけでも障害は山ほどあるが、どんなものでも乗り越えられるような気がした。
エッジは腕を伸ばして、ベッドの横の卓上にある明かりを吹き消した。部屋に差し込む銀色の月の光が、自分の横にいるふたりの顔に長い影を落としていた。
目が覚めてもこれが夢でないように。
心の中で誰へともなく祈りを捧げ、エッジは目を閉じた。
眠りはすぐに訪れた。夢の中で、新緑が萌え出ずる桜を見た気がした。



end


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関連作品はこちら。
『100万通りの『好き』』(前作)
『丘の上の秘密』(続編)
『感情探索』(続々編)
『冷血の婚礼』(『丘の上の秘密』の続きでスピンオフ)



あとがきはこちら。
あとがき: 四季の桜


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