FF4TAのリディアもエッジも、FF4の頃と比べてだいぶ性格が変わってるよなあーと思ったところから、何がきっかけになったんだろう?という妄想を広げたものです。
さらに、そのきっかけにお館様のあの傷が絡んできてるんじゃ…!?というこれまた激しい捏造です。 時系列的にはInterludeの後くらいを想定して書きました。いつものことながら、いちゃいちゃしてなくてすみません。そのくせ長いです。
『つばめは雲居のよそに』
さらに、そのきっかけにお館様のあの傷が絡んできてるんじゃ…!?というこれまた激しい捏造です。 時系列的にはInterludeの後くらいを想定して書きました。いつものことながら、いちゃいちゃしてなくてすみません。そのくせ長いです。
(追記 フォーマットが崩れてたので直しました。失礼しました…)
『つばめは雲居のよそに』
久しぶりに帰ったミストはにわかに活気づいていた。周辺各国から資材や労働者を得て、順調に復興作業が行われているようだ。
燃え落ちた建物やがれきはすっかり姿を消し、建物の修復が順調に進められている。また、作付けを再開した農地も多い。
村長をはじめとする村の住人たちは、束の間のリディアの帰省を歓迎し、ささやかながら招宴を催してくれた。
村の集会所で行われた宴には他国からの労働者も顔を見せていた。初めて召喚士を見るという人々が、興味深そうに幻界のことや幻獣について色々質問をしてきた。
偏狭の山里に見知らぬ人々が往来する風景は見慣れなかったが、手配をしてくれた各国の友人たちの労力が心に染みた。
一週間後、シドが飛空艇で地底の幻獣の洞窟の入口まで送ってくれた。
いつも「エンジンテスト」と称しているが、彼の優しさであることは疑うべくもなく、別れ際にリディアは最大限のお礼を述べた。
幻獣の洞窟はいつものように魔物も出ない。以前、不思議に思って幻獣王に聞いたところ、リディアが通る際には結界を張って魔物の出現を抑制しているとのことだった。つまり、魔物は外部からの侵入を阻止するため、そのままにしておくつもりらしい。
幻獣の町へ着くと、早速黒いフードつきのローブをまとった五歳くらいの少年が駆け寄ってきた。
「おかえり、リディア!」
「ただいま」
幻獣たちは普段は人間のような姿をしているが、それは生活するのに都合がいいためである。本来の姿のまま生活していては、いくら場所があっても足りないので、普段は自らの魔力で人間の形を保っているのだ。
この少年も、本来の姿はグリーンドラゴンの子供だった。フードの奥の笑顔から八重歯というには鋭すぎる牙がのぞいた。
「リディアが帰ってくるのを待ってたんだよ。読んでほしい本があるんだ」
少年は本を差し出してリディアに渡す。古代の言葉で書かれた物語のようだ。表紙を一瞥しうなずいた。
「いいわよ。これから幻獣王様に挨拶してくるから、そのあとでいい?」
「うん!」
少年は嬉しそうに顔をほころばせて大きく手を振る。手を振り返してリディアは幻獣王夫妻の住居へと向かった。
笑顔で迎えてくれた幻獣王夫妻とのしばしの会話を終え、先ほど少年と会った町の入口へ行くと、彼の姿が見当たらない。
住居や、図書館にいる他の幻獣たちに尋ねても、皆一様に彼を見ていないという。
リディアは寒気を覚えた。こんな狭い町で、姿が見当たらないとはどういうことなのだろうか。嫌な予感がする。
出入口の役目を果たしている光の門を飛び込むようにしてくぐると、出てすぐの場所に、小さな黒いローブが打ち捨てられているのに気づいた。
第六感としかいえない悪寒はどんどん強くなる。たまらない気持ちで、リディアは洞窟の入口方面へ駆け出した。
しばらくして、数人の背中を視界が捉えた。リディアの足音に気づいたのか、一団のひとりが後ろを振り返った。
その瞬間、リディアは息を飲んだ。自然に足が止まった。
「なんで…」
比較的新しい記憶の棚に入れられたその顔は、先日ミストの酒宴の席で見た人物だった。
リディアの存在に気づいた男に促されて全員が立ち止まり、その視線がリディアの上で止まった。
一団は三人。全員あの日ミストで見た、とリディアは確信した。ミストに来ていた労働者だ。
あの日、興味深く自分に幻界のことを聞いてきた男の腕の中に抱えられた少年は、小さいグリーンドラゴンの姿になっており身動きしない。リディアは全身から血の気が引くのを感じた。
密猟。
その言葉が脳裏に浮かんだ。幻獣は、その能力を用いようとする者たちからいつの時代も猟の対象となってきた。
例えばドラゴンの牙は魔法を帯びており、黒魔法と同じ威力を持つ。鱗は炎や冷気への耐性を持ち、防具へ利用される。もしかしたら、ドラゴンそのものの標本を求める富豪もいるのかもしれない。いずれにしても、狩られた幻獣は闇市場で高値でやり取りされている。
この町に幻獣がひっそりと暮らしているのは、人間や知能の高い他の種族から身を守るためである。
もちろん、リヴァイアサンやアスラにかかれば大抵の外敵は排除できる。しかし、すべての幻獣が彼らのように強大な力を有するわけではない。あのグリーンドラゴンのように、若い幻獣は対抗しうる力を持たない。
厳密に言えば、幻獣を殺すことがどこかの国の法で禁止されているわけではないので、密猟という言葉は正しくないのかもしれない。しかし召還士の文化では、幻獣は自らに力を与える存在であることから、彼らを殺すことは当然禁忌とされていた。
「…その子を返して」
精一杯搾り出した声はかすれて震えていた。
怒りなのか、失望なのか、それとも恐怖なのかわからない。
数で優位に立っているからだろうか、一団はリディアの言葉に動じる気配も見せず、頬を歪めるようにして笑みすら浮かべた。
「見られたからには殺すしかないな」
冷たい声が宣告し、それが合図だったかのようにひとりの男が鞘から短剣を抜いて、素早くリディアに斬りかかってきた。
短剣の一閃をなんとかかわし、間合いを取る。隙のない構えから、リディアはこの男達がただの民間人ではないと確信を持った。
しかし、いくら密猟者であっても、魔法で傷つけることには躊躇を覚える。どうするべきか逡巡している間にも、男は切りかかってくる。武器を持ってこなかったことを後悔するが、後の祭りだ。
次の瞬間、右肩の横を何かが通り過ぎた。じわりと血がにじんだ。
なかなかリディアをしとめられないことに業を煮やしたのか、もうひとりの男が後列からクロスボウを放ったようだった。
ドラゴンを抱えた男が洞窟の入口に向けて走りだした。まずはあの男を足止めしなければと思った瞬間、逃げ去ろうとした男がその場に崩れ落ちた。
その腕からドラゴンの子供が地面に放り出される。
倒れた男の周囲に赤い血だまりが広がっていく。リディアは魔法を唱えることも忘れて、呆然とその光景を眺めていた。
よく見ると倒れた男の首に尖った金属製のものが突き刺さっている。手裏剣だった。
洞窟の向こうから現れた人影は、どこか悠然とドラゴンの子供の横に屈んで長い首に手を触れた。
「エッジ…」
これは夢だろうか?何故彼がここにいるのだろう。そんな疑問が解消される前に、エッジは片方の腕でドラゴンを抱き上げ、リディアの方に向き直った。
「まだ息がある。早くアスラに」
リディアはうなずいて、彼のところに駆け寄ろうとしたが、先ほど切りかかってきた男に道をふさがれ、そのまま腕をつかまれて拘束されてしまった。逃れようと身をよじらせると、喉元に刃物を突きつけられた。
「ドラゴンをこちらへよこせ」
短剣を自分に向けたまま、男がエッジに命令する。クロスボウを構えた男もすぐ横でエッジに向けて弓を構えている。
エッジは長い息の後、心底呆れたように吐き捨てた。
「誰にものを頼んでるのかねえ」
彼の瞳が冷たく輝く。リディアはしまった、と思った。この状況であっても、エッジがこの男たちに打ち負かされる可能性は限りなく低いだろう。しかし、グリーンドラゴンの力を奪い、自分を人質にとった密漁者たちに対し、エッジの怒りが頂点に達している。冷静さを失った彼は、男たちを惨殺してしまうかもしれない。もちろん彼らがグリーンドラゴンにしたことは許せないが、できる限り被害は抑えたい。
「エッジ、大丈夫だから」
「うるさい!」
彼を落ちつけようと言葉を発したところ、後ろの男が激昂したかのように叫んだ。つかまれた腕が強く後ろに引かれ、刃物のひんやりとした切っ先が顎の下からそのまま横に滑らされる。やがてその部分が熱をもちはじめ、切られたのだということを悟った。
この程度の傷は大したことはない。ただの挑発だ。エッジの反応を確認しようとリディアが視線を送ると、彼の姿はすでにそこになかった。
突如、腕をつかむ力が抜けて、リディアは前のめりになった。振り返ると、いつの間にか移動したエッジが男の左胸を後ろから刀で一突きしていた。
叫び声も出せないのだろう。男は胸を押さえてその場に崩れ落ちた。おびただしい量の血が流れている。
「ひいっ」
すぐ横にいたクロスボウを持った男が、刺された男の代わりのように悲鳴を上げた。リディアはエッジの怒りに燃える目がその男を捉えたのを見て、あわてて彼を後ろから羽交い絞めにした。
「エッジ、だめ!」
「離せ」
エッジは振り向いてちらりとリディアに視線を送り、拘束する腕をなんなく振りほどいた。そして、片腕に抱えていたグリーンドラゴンの子供をリディアに渡す。彼が軽々と持ち上げていたことが信じられないくらい重く、リディアはその身体を両手で抱えて座り込んだ。外傷はないが、呼吸が弱々しい。毒物だろうか。
クロスボウを放り投げ、男が一目散に駆け出す。エッジが動いた瞬間、耳をつんざく轟音とともに目の前にまばゆい閃光が走り、リディアはとっさに目を閉じて顔を背けた。全身にびりびりとした軽い痺れを覚えた。
「…グリーンドラゴン」
まぶたの向こうが暗くなってから瞳を開けると、巨大なドラゴンが洞窟の奥に姿を現していた。リディアは自分の腕の中で息絶えようとしている子供の親なのだと直感的に判断した。
逃げようとしていた男と手裏剣で仕留められた男は黒焦げになり、並んで倒れていた。グリーンドラゴンの発した雷に打たれたのだろう。髪の毛と皮膚が焼ける不快な臭いが鼻をついた。エッジはすんでのところで直撃は避けたようだが、雷で全身がしびれるのか、膝をついて、刀で身体を支えている。
グリーンドラゴンと視線が合った。もしかしたら子供を見ていたのかもしれない。
「ごめんなさい!私たちは敵じゃないの。あなたの子供はすぐ王妃様に助けてもらうから!」
古代語で叫ぶが、ドラゴンは鋭い視線のまま、地響きを立てながら自分に近づいてくる。その足取りは思いの外速い。
「私たちはあなたたちに何もしないから!大丈夫よ!」
繰り返し母親を落ち着かせようと試みるが、彼女は聞く耳を持たないかのように、リディアに迫ってくる。リディアは冷たい汗が背中に落ちるのを感じた。
どうするべきかと考える時間もなく、間合いがつめられた。グリーンドラゴンが自分に向かって前足を振り上げる。洞窟の中のほのかな光の中、鋭い爪がきらめいたのが見えた。
この子供を抱えたままでは避けられない。リディアはそう判断して次に来るであろう衝撃に耐えられるように、子ドラゴンを胸に抱いたまま身をかがめた。
突然、世界の時間の進みが遅くなったかのように錯覚した。肉をえぐる音がしたにも関わらず予想していた痛みが一向に訪れない。恐る恐る瞳を開けると、目の前でエッジが膝をつくところだった。
「エッジ!!」
無意識に彼の名が口をついて出た。一見した程度ではどこに傷を負ったのか確認できないくらい、彼の身体は赤く染まっていた。胸を押さえた指の隙間から、とめどなく血が溢れている。
グリーンドラゴンがもう一度、鋭い爪を振りかざした。自らの腕の中のグリーンドラゴンの子供と、大量の血を流しながら今まさに立ち上がろうとしているエッジを順番に見やり、絶望的な気持ちになった時だった。
「おやめなさい!」
凛とした声が洞窟内に響く。振り向くと、アスラが毅然とした表情でその場に立っていた。
たちまち、周囲に充満していた殺気が霧散したかのように感じられた。グリーンドラゴンは振り上げた腕を止め、そのまま静かに下ろした。
「王妃様…」
腕の中の子供がどんどん冷たくなっていく。リディアはその場に泣き崩れた。
リディアは部屋から出てきたアスラに駆け寄った。王妃は少し憔悴した様子で、ひとつため息をついたが、リディアと視線が合うと無理矢理繕ったかのような笑顔を浮かべた。
「王妃様、エッジは」
「…もう大丈夫ですよ」
礼を述べて部屋に入り、ベッドに駆け寄る。身を起こした姿勢の彼の身体の傷は消えており、リディアは安堵の息を漏らした。
「…おう。怪我は大丈夫か」
そう言って、彼は自分の包帯が巻かれた首に手を伸ばす。リディアは彼の手を取ってうなずいた。彼の負ったものに比べたらこんなものは怪我にも入らない。
待っている間に枯れたと思った涙がまたこみ上げてきた。リディアは流れる涙を拭うのも忘れて、震える声で訴えた。
「私は平気。でも…」
アスラの回復魔法を持ってしても、グリーンドラゴンの子供は助からなかった。母ドラゴンは息子の死を確認すると悲しそうな咆哮を上げ、亡骸をくわえて去っていった。
どうやら子供の末路はアスラから聞かされていたようだが、あらためてエッジは悔しそうに目を伏せた。
「…あいつを助けてやりたかったな。もっと早く来るべきだった」
口惜しさからか、エッジは眉間に皺を寄せて深い息を吐き出した。
彼が語ったところによると、リディアがミストを発った直後、支援物資が盗まれ、労働者がいなくなるという事件が起きたらしい。密偵からその報告を受けたエッジは直感に突き動かされて幻界へ向かい、先ほどの事件に遭遇したのだという。きっと、密猟者たちは自分を尾行して、幻界へ侵入したのだろう。自分の不注意さが今更ながら悔やまれて、リディアは唇を噛んだ。
涙を拭ってリディアはエッジの視線を捉え、その手を強く握りしめた。
「本当にごめんなさい。私のせいで」
「お前はできる限りのことをしただろ。謝ることなんかない」
リディアの謝罪に対し、エッジはうっすらと微笑んで手を握り返した。胸が締めつけられ、再び涙が溢れてくる。
扉が開く音がした。振り返ると、アスラが神妙な面持ちで部屋に入ってくるところだった。
「…エッジ殿。今すぐ国へお帰りください」
「えっ」
リディアはあまりの提案に心から驚いた。こんな大怪我を負った彼に今すぐ帰れと言うのだろうか。傷は消えたかもしれないが、あれだけの血を流した後なのだから、少し休むべきだとリディアは思った。
「そうだな」
さらに驚いたことに、リディアが王妃の真意を問う前に、エッジがあっさりと了承した。ふたりの顔を交互に見比べると、どちらも固い表情ではあったが、瞳には強い力があった。
「どうして…」
やっと言葉を紡ぐと、ベッドから降りたエッジが目を細めて、自分の肩を叩いた。
「またな」
呆然とする自分を尻目に、エッジは傍らに置かれていた刀と自分の荷物を手に取り、アスラの方に向き直った。
「魔法でお送りしましょうか」
「いや、大丈夫だ。部下が洞窟の入り口まで来てる。あんたも魔法使いすぎて消耗してるだろ」
エッジは振り返らずに背を向けたまま、手を振って部屋を出て行く。慌てて追おうとすると、アスラに腕を掴まれた。
「王妃様、どうして…」
リディアは息をのんだ。いつも穏やかなアスラの顔が苦痛に耐えるかのようにしかめられているのを見たからだ。こんなことは初めてだった。
その後の幻獣の町は、グリーンドラゴンと密猟者の話題でもちきりだった。人間の密猟者が現れて、子供が殺されたという話が放つ暗鬱な雰囲気が、町中を支配していた。現場に居合わせたリディアに興味本位で状況を聞いてくる者も多かった。
ある日、若い幻獣が声をひそめて問いかけてきた。
「この前の事件で、人間がひとり生きて逃れたというのは本当なのか?」
最初、何を問われているのかわからなかった。聞くと、密猟者はほとんど死んだが、ひとりは事件後にアスラが傷を癒して逃がした、という噂が流れているという。エッジのことだと気づき、リディアは説明した。
「その人は違う。ドラゴンを助けてくれようとしたのよ」
「でも人間なんだろう?我々を傷つける存在を、何故助ける必要があったのかわからない」
吐き捨てるようなその言葉に、リディアは怒りを通り越して悲しみを抱いた。
「人間が皆悪い存在っていう訳じゃないでしょう。私だって人間よ」
「リディアはもう幻獣みたいなものじゃないか」
リディアは答えにつまった。幻獣の仲間と認めてもらえるのはいいが、人間という存在を否定するがために、自分が人間であることまで否定されるのは納得がいかなかった。どう伝えるべきか逡巡していると、フードの奥の瞳が光った。
「今、どう人間に復讐するか皆で考えているところなんだ。協力してくれよ」
「復讐なんて!」
思わず叫ぶと彼は不気味な微笑みを浮かべてその場から消えた。リディアはその場に立ち尽くし、寒気とは裏腹に、自分の心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
もし自分が大切な仲間を不当な理由で殺されたら、彼ら同様、激しい怒りを覚えるだろう。しかし、怒りと暴力は連鎖する。どこかで止めなければ、終わりのない戦いが続くだけなのだ。復讐は何も生まない。リディアはそう信じている。
それからしばらく経った頃だった。
いつかのように硬い表情をしたアスラが、自室へリディアを呼び寄せ、決まったことを宣言するかのように言い放った。
「リディア、あなたは人間界へ帰りなさい。そしてもう幻界へ来てはいけません」
いつになく冷たく感じられる声で淡々と紡がれた言葉に、リディアは自らの耳を疑った。あまりのことに反応できない。
人間に対する憎悪の念が日に日に高まってきていることはリディアも感じていた。アスラがそのことを懸念しているのだろうというのもわかる。しかし、自分が去らなければならない理由がわからなかった。少なくとも自分は幻獣たちに受け入れられていると思うし、身に危険が及ぶことはないだろう。
悲しみにも失望にも似た感情が湧き上がる。自らを奮い立たせ、リディアは言葉を絞り出した。
「この前の事件のことは本当に反省しています。私の不注意で、密猟者たちをこの町に侵入させてしまいました。…どうすれば、ここにいることを許していただけますか」
アスラは険しい表情のまま首を振った。
「今まで、今回の様なことが起きなかったことが不思議なくらいなのです。やはり、幻界は人間界との交流を断ち、幻獣たちの安住の地であるべきです」
「だったら、私はずっと幻界にいます!」
にべもないアスラの態度に、リディアは思わず声を上げてしまった。交流することがだめなのであれば、こちらに留まればいいと衝動的に思った。
アスラはため息をついて、無表情のまま手を前に突き出した。
「では、仕方ありません」
突き出された手から光の玉が放たれて、自分の体を包む。瞬間移動の魔法だ。有無を言わさずに、自分を地上へ帰すというのだろうか。まさかこのような事態になるとは思いもよらず、リディアは声の限り叫んだ。
「王妃様!お願い、やめてください!私はここにいたいんです!」
「…ごめんなさい」
迷いが生じたように見えたアスラの表情を確認する前に、視界がまばゆい光に包まれ、身体の重さが消えていった。
何かを自分に懇願するような、悲しげな声が聞こえた気がした。
燃え落ちた建物やがれきはすっかり姿を消し、建物の修復が順調に進められている。また、作付けを再開した農地も多い。
村長をはじめとする村の住人たちは、束の間のリディアの帰省を歓迎し、ささやかながら招宴を催してくれた。
村の集会所で行われた宴には他国からの労働者も顔を見せていた。初めて召喚士を見るという人々が、興味深そうに幻界のことや幻獣について色々質問をしてきた。
偏狭の山里に見知らぬ人々が往来する風景は見慣れなかったが、手配をしてくれた各国の友人たちの労力が心に染みた。
一週間後、シドが飛空艇で地底の幻獣の洞窟の入口まで送ってくれた。
いつも「エンジンテスト」と称しているが、彼の優しさであることは疑うべくもなく、別れ際にリディアは最大限のお礼を述べた。
幻獣の洞窟はいつものように魔物も出ない。以前、不思議に思って幻獣王に聞いたところ、リディアが通る際には結界を張って魔物の出現を抑制しているとのことだった。つまり、魔物は外部からの侵入を阻止するため、そのままにしておくつもりらしい。
幻獣の町へ着くと、早速黒いフードつきのローブをまとった五歳くらいの少年が駆け寄ってきた。
「おかえり、リディア!」
「ただいま」
幻獣たちは普段は人間のような姿をしているが、それは生活するのに都合がいいためである。本来の姿のまま生活していては、いくら場所があっても足りないので、普段は自らの魔力で人間の形を保っているのだ。
この少年も、本来の姿はグリーンドラゴンの子供だった。フードの奥の笑顔から八重歯というには鋭すぎる牙がのぞいた。
「リディアが帰ってくるのを待ってたんだよ。読んでほしい本があるんだ」
少年は本を差し出してリディアに渡す。古代の言葉で書かれた物語のようだ。表紙を一瞥しうなずいた。
「いいわよ。これから幻獣王様に挨拶してくるから、そのあとでいい?」
「うん!」
少年は嬉しそうに顔をほころばせて大きく手を振る。手を振り返してリディアは幻獣王夫妻の住居へと向かった。
笑顔で迎えてくれた幻獣王夫妻とのしばしの会話を終え、先ほど少年と会った町の入口へ行くと、彼の姿が見当たらない。
住居や、図書館にいる他の幻獣たちに尋ねても、皆一様に彼を見ていないという。
リディアは寒気を覚えた。こんな狭い町で、姿が見当たらないとはどういうことなのだろうか。嫌な予感がする。
出入口の役目を果たしている光の門を飛び込むようにしてくぐると、出てすぐの場所に、小さな黒いローブが打ち捨てられているのに気づいた。
第六感としかいえない悪寒はどんどん強くなる。たまらない気持ちで、リディアは洞窟の入口方面へ駆け出した。
しばらくして、数人の背中を視界が捉えた。リディアの足音に気づいたのか、一団のひとりが後ろを振り返った。
その瞬間、リディアは息を飲んだ。自然に足が止まった。
「なんで…」
比較的新しい記憶の棚に入れられたその顔は、先日ミストの酒宴の席で見た人物だった。
リディアの存在に気づいた男に促されて全員が立ち止まり、その視線がリディアの上で止まった。
一団は三人。全員あの日ミストで見た、とリディアは確信した。ミストに来ていた労働者だ。
あの日、興味深く自分に幻界のことを聞いてきた男の腕の中に抱えられた少年は、小さいグリーンドラゴンの姿になっており身動きしない。リディアは全身から血の気が引くのを感じた。
密猟。
その言葉が脳裏に浮かんだ。幻獣は、その能力を用いようとする者たちからいつの時代も猟の対象となってきた。
例えばドラゴンの牙は魔法を帯びており、黒魔法と同じ威力を持つ。鱗は炎や冷気への耐性を持ち、防具へ利用される。もしかしたら、ドラゴンそのものの標本を求める富豪もいるのかもしれない。いずれにしても、狩られた幻獣は闇市場で高値でやり取りされている。
この町に幻獣がひっそりと暮らしているのは、人間や知能の高い他の種族から身を守るためである。
もちろん、リヴァイアサンやアスラにかかれば大抵の外敵は排除できる。しかし、すべての幻獣が彼らのように強大な力を有するわけではない。あのグリーンドラゴンのように、若い幻獣は対抗しうる力を持たない。
厳密に言えば、幻獣を殺すことがどこかの国の法で禁止されているわけではないので、密猟という言葉は正しくないのかもしれない。しかし召還士の文化では、幻獣は自らに力を与える存在であることから、彼らを殺すことは当然禁忌とされていた。
「…その子を返して」
精一杯搾り出した声はかすれて震えていた。
怒りなのか、失望なのか、それとも恐怖なのかわからない。
数で優位に立っているからだろうか、一団はリディアの言葉に動じる気配も見せず、頬を歪めるようにして笑みすら浮かべた。
「見られたからには殺すしかないな」
冷たい声が宣告し、それが合図だったかのようにひとりの男が鞘から短剣を抜いて、素早くリディアに斬りかかってきた。
短剣の一閃をなんとかかわし、間合いを取る。隙のない構えから、リディアはこの男達がただの民間人ではないと確信を持った。
しかし、いくら密猟者であっても、魔法で傷つけることには躊躇を覚える。どうするべきか逡巡している間にも、男は切りかかってくる。武器を持ってこなかったことを後悔するが、後の祭りだ。
次の瞬間、右肩の横を何かが通り過ぎた。じわりと血がにじんだ。
なかなかリディアをしとめられないことに業を煮やしたのか、もうひとりの男が後列からクロスボウを放ったようだった。
ドラゴンを抱えた男が洞窟の入口に向けて走りだした。まずはあの男を足止めしなければと思った瞬間、逃げ去ろうとした男がその場に崩れ落ちた。
その腕からドラゴンの子供が地面に放り出される。
倒れた男の周囲に赤い血だまりが広がっていく。リディアは魔法を唱えることも忘れて、呆然とその光景を眺めていた。
よく見ると倒れた男の首に尖った金属製のものが突き刺さっている。手裏剣だった。
洞窟の向こうから現れた人影は、どこか悠然とドラゴンの子供の横に屈んで長い首に手を触れた。
「エッジ…」
これは夢だろうか?何故彼がここにいるのだろう。そんな疑問が解消される前に、エッジは片方の腕でドラゴンを抱き上げ、リディアの方に向き直った。
「まだ息がある。早くアスラに」
リディアはうなずいて、彼のところに駆け寄ろうとしたが、先ほど切りかかってきた男に道をふさがれ、そのまま腕をつかまれて拘束されてしまった。逃れようと身をよじらせると、喉元に刃物を突きつけられた。
「ドラゴンをこちらへよこせ」
短剣を自分に向けたまま、男がエッジに命令する。クロスボウを構えた男もすぐ横でエッジに向けて弓を構えている。
エッジは長い息の後、心底呆れたように吐き捨てた。
「誰にものを頼んでるのかねえ」
彼の瞳が冷たく輝く。リディアはしまった、と思った。この状況であっても、エッジがこの男たちに打ち負かされる可能性は限りなく低いだろう。しかし、グリーンドラゴンの力を奪い、自分を人質にとった密漁者たちに対し、エッジの怒りが頂点に達している。冷静さを失った彼は、男たちを惨殺してしまうかもしれない。もちろん彼らがグリーンドラゴンにしたことは許せないが、できる限り被害は抑えたい。
「エッジ、大丈夫だから」
「うるさい!」
彼を落ちつけようと言葉を発したところ、後ろの男が激昂したかのように叫んだ。つかまれた腕が強く後ろに引かれ、刃物のひんやりとした切っ先が顎の下からそのまま横に滑らされる。やがてその部分が熱をもちはじめ、切られたのだということを悟った。
この程度の傷は大したことはない。ただの挑発だ。エッジの反応を確認しようとリディアが視線を送ると、彼の姿はすでにそこになかった。
突如、腕をつかむ力が抜けて、リディアは前のめりになった。振り返ると、いつの間にか移動したエッジが男の左胸を後ろから刀で一突きしていた。
叫び声も出せないのだろう。男は胸を押さえてその場に崩れ落ちた。おびただしい量の血が流れている。
「ひいっ」
すぐ横にいたクロスボウを持った男が、刺された男の代わりのように悲鳴を上げた。リディアはエッジの怒りに燃える目がその男を捉えたのを見て、あわてて彼を後ろから羽交い絞めにした。
「エッジ、だめ!」
「離せ」
エッジは振り向いてちらりとリディアに視線を送り、拘束する腕をなんなく振りほどいた。そして、片腕に抱えていたグリーンドラゴンの子供をリディアに渡す。彼が軽々と持ち上げていたことが信じられないくらい重く、リディアはその身体を両手で抱えて座り込んだ。外傷はないが、呼吸が弱々しい。毒物だろうか。
クロスボウを放り投げ、男が一目散に駆け出す。エッジが動いた瞬間、耳をつんざく轟音とともに目の前にまばゆい閃光が走り、リディアはとっさに目を閉じて顔を背けた。全身にびりびりとした軽い痺れを覚えた。
「…グリーンドラゴン」
まぶたの向こうが暗くなってから瞳を開けると、巨大なドラゴンが洞窟の奥に姿を現していた。リディアは自分の腕の中で息絶えようとしている子供の親なのだと直感的に判断した。
逃げようとしていた男と手裏剣で仕留められた男は黒焦げになり、並んで倒れていた。グリーンドラゴンの発した雷に打たれたのだろう。髪の毛と皮膚が焼ける不快な臭いが鼻をついた。エッジはすんでのところで直撃は避けたようだが、雷で全身がしびれるのか、膝をついて、刀で身体を支えている。
グリーンドラゴンと視線が合った。もしかしたら子供を見ていたのかもしれない。
「ごめんなさい!私たちは敵じゃないの。あなたの子供はすぐ王妃様に助けてもらうから!」
古代語で叫ぶが、ドラゴンは鋭い視線のまま、地響きを立てながら自分に近づいてくる。その足取りは思いの外速い。
「私たちはあなたたちに何もしないから!大丈夫よ!」
繰り返し母親を落ち着かせようと試みるが、彼女は聞く耳を持たないかのように、リディアに迫ってくる。リディアは冷たい汗が背中に落ちるのを感じた。
どうするべきかと考える時間もなく、間合いがつめられた。グリーンドラゴンが自分に向かって前足を振り上げる。洞窟の中のほのかな光の中、鋭い爪がきらめいたのが見えた。
この子供を抱えたままでは避けられない。リディアはそう判断して次に来るであろう衝撃に耐えられるように、子ドラゴンを胸に抱いたまま身をかがめた。
突然、世界の時間の進みが遅くなったかのように錯覚した。肉をえぐる音がしたにも関わらず予想していた痛みが一向に訪れない。恐る恐る瞳を開けると、目の前でエッジが膝をつくところだった。
「エッジ!!」
無意識に彼の名が口をついて出た。一見した程度ではどこに傷を負ったのか確認できないくらい、彼の身体は赤く染まっていた。胸を押さえた指の隙間から、とめどなく血が溢れている。
グリーンドラゴンがもう一度、鋭い爪を振りかざした。自らの腕の中のグリーンドラゴンの子供と、大量の血を流しながら今まさに立ち上がろうとしているエッジを順番に見やり、絶望的な気持ちになった時だった。
「おやめなさい!」
凛とした声が洞窟内に響く。振り向くと、アスラが毅然とした表情でその場に立っていた。
たちまち、周囲に充満していた殺気が霧散したかのように感じられた。グリーンドラゴンは振り上げた腕を止め、そのまま静かに下ろした。
「王妃様…」
腕の中の子供がどんどん冷たくなっていく。リディアはその場に泣き崩れた。
リディアは部屋から出てきたアスラに駆け寄った。王妃は少し憔悴した様子で、ひとつため息をついたが、リディアと視線が合うと無理矢理繕ったかのような笑顔を浮かべた。
「王妃様、エッジは」
「…もう大丈夫ですよ」
礼を述べて部屋に入り、ベッドに駆け寄る。身を起こした姿勢の彼の身体の傷は消えており、リディアは安堵の息を漏らした。
「…おう。怪我は大丈夫か」
そう言って、彼は自分の包帯が巻かれた首に手を伸ばす。リディアは彼の手を取ってうなずいた。彼の負ったものに比べたらこんなものは怪我にも入らない。
待っている間に枯れたと思った涙がまたこみ上げてきた。リディアは流れる涙を拭うのも忘れて、震える声で訴えた。
「私は平気。でも…」
アスラの回復魔法を持ってしても、グリーンドラゴンの子供は助からなかった。母ドラゴンは息子の死を確認すると悲しそうな咆哮を上げ、亡骸をくわえて去っていった。
どうやら子供の末路はアスラから聞かされていたようだが、あらためてエッジは悔しそうに目を伏せた。
「…あいつを助けてやりたかったな。もっと早く来るべきだった」
口惜しさからか、エッジは眉間に皺を寄せて深い息を吐き出した。
彼が語ったところによると、リディアがミストを発った直後、支援物資が盗まれ、労働者がいなくなるという事件が起きたらしい。密偵からその報告を受けたエッジは直感に突き動かされて幻界へ向かい、先ほどの事件に遭遇したのだという。きっと、密猟者たちは自分を尾行して、幻界へ侵入したのだろう。自分の不注意さが今更ながら悔やまれて、リディアは唇を噛んだ。
涙を拭ってリディアはエッジの視線を捉え、その手を強く握りしめた。
「本当にごめんなさい。私のせいで」
「お前はできる限りのことをしただろ。謝ることなんかない」
リディアの謝罪に対し、エッジはうっすらと微笑んで手を握り返した。胸が締めつけられ、再び涙が溢れてくる。
扉が開く音がした。振り返ると、アスラが神妙な面持ちで部屋に入ってくるところだった。
「…エッジ殿。今すぐ国へお帰りください」
「えっ」
リディアはあまりの提案に心から驚いた。こんな大怪我を負った彼に今すぐ帰れと言うのだろうか。傷は消えたかもしれないが、あれだけの血を流した後なのだから、少し休むべきだとリディアは思った。
「そうだな」
さらに驚いたことに、リディアが王妃の真意を問う前に、エッジがあっさりと了承した。ふたりの顔を交互に見比べると、どちらも固い表情ではあったが、瞳には強い力があった。
「どうして…」
やっと言葉を紡ぐと、ベッドから降りたエッジが目を細めて、自分の肩を叩いた。
「またな」
呆然とする自分を尻目に、エッジは傍らに置かれていた刀と自分の荷物を手に取り、アスラの方に向き直った。
「魔法でお送りしましょうか」
「いや、大丈夫だ。部下が洞窟の入り口まで来てる。あんたも魔法使いすぎて消耗してるだろ」
エッジは振り返らずに背を向けたまま、手を振って部屋を出て行く。慌てて追おうとすると、アスラに腕を掴まれた。
「王妃様、どうして…」
リディアは息をのんだ。いつも穏やかなアスラの顔が苦痛に耐えるかのようにしかめられているのを見たからだ。こんなことは初めてだった。
その後の幻獣の町は、グリーンドラゴンと密猟者の話題でもちきりだった。人間の密猟者が現れて、子供が殺されたという話が放つ暗鬱な雰囲気が、町中を支配していた。現場に居合わせたリディアに興味本位で状況を聞いてくる者も多かった。
ある日、若い幻獣が声をひそめて問いかけてきた。
「この前の事件で、人間がひとり生きて逃れたというのは本当なのか?」
最初、何を問われているのかわからなかった。聞くと、密猟者はほとんど死んだが、ひとりは事件後にアスラが傷を癒して逃がした、という噂が流れているという。エッジのことだと気づき、リディアは説明した。
「その人は違う。ドラゴンを助けてくれようとしたのよ」
「でも人間なんだろう?我々を傷つける存在を、何故助ける必要があったのかわからない」
吐き捨てるようなその言葉に、リディアは怒りを通り越して悲しみを抱いた。
「人間が皆悪い存在っていう訳じゃないでしょう。私だって人間よ」
「リディアはもう幻獣みたいなものじゃないか」
リディアは答えにつまった。幻獣の仲間と認めてもらえるのはいいが、人間という存在を否定するがために、自分が人間であることまで否定されるのは納得がいかなかった。どう伝えるべきか逡巡していると、フードの奥の瞳が光った。
「今、どう人間に復讐するか皆で考えているところなんだ。協力してくれよ」
「復讐なんて!」
思わず叫ぶと彼は不気味な微笑みを浮かべてその場から消えた。リディアはその場に立ち尽くし、寒気とは裏腹に、自分の心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
もし自分が大切な仲間を不当な理由で殺されたら、彼ら同様、激しい怒りを覚えるだろう。しかし、怒りと暴力は連鎖する。どこかで止めなければ、終わりのない戦いが続くだけなのだ。復讐は何も生まない。リディアはそう信じている。
それからしばらく経った頃だった。
いつかのように硬い表情をしたアスラが、自室へリディアを呼び寄せ、決まったことを宣言するかのように言い放った。
「リディア、あなたは人間界へ帰りなさい。そしてもう幻界へ来てはいけません」
いつになく冷たく感じられる声で淡々と紡がれた言葉に、リディアは自らの耳を疑った。あまりのことに反応できない。
人間に対する憎悪の念が日に日に高まってきていることはリディアも感じていた。アスラがそのことを懸念しているのだろうというのもわかる。しかし、自分が去らなければならない理由がわからなかった。少なくとも自分は幻獣たちに受け入れられていると思うし、身に危険が及ぶことはないだろう。
悲しみにも失望にも似た感情が湧き上がる。自らを奮い立たせ、リディアは言葉を絞り出した。
「この前の事件のことは本当に反省しています。私の不注意で、密猟者たちをこの町に侵入させてしまいました。…どうすれば、ここにいることを許していただけますか」
アスラは険しい表情のまま首を振った。
「今まで、今回の様なことが起きなかったことが不思議なくらいなのです。やはり、幻界は人間界との交流を断ち、幻獣たちの安住の地であるべきです」
「だったら、私はずっと幻界にいます!」
にべもないアスラの態度に、リディアは思わず声を上げてしまった。交流することがだめなのであれば、こちらに留まればいいと衝動的に思った。
アスラはため息をついて、無表情のまま手を前に突き出した。
「では、仕方ありません」
突き出された手から光の玉が放たれて、自分の体を包む。瞬間移動の魔法だ。有無を言わさずに、自分を地上へ帰すというのだろうか。まさかこのような事態になるとは思いもよらず、リディアは声の限り叫んだ。
「王妃様!お願い、やめてください!私はここにいたいんです!」
「…ごめんなさい」
迷いが生じたように見えたアスラの表情を確認する前に、視界がまばゆい光に包まれ、身体の重さが消えていった。
何かを自分に懇願するような、悲しげな声が聞こえた気がした。
次の瞬間、目の前には海へ面した草原が広がっていた。太陽の光が横から差しており、その白さから早朝だとうかがえる。
振り返ると、無骨というほかない、装飾の少ない灰色の石を積み上げた砦のような城が少し先にそびえたっていた。
…エブラーナだ。
記憶の中の風景と合致して、リディアは現在地を知る。
何故エブラーナに移動させられたのだろうか。考えられる可能性はいくつかある。しかしそのうちのどれも、リディアには納得できなかった。
その時、重厚な城門が重い音を立ててわずかに開き、その隙間から出てくる影があった。リディアは反射的にその影から逃れようと、海岸線沿いに走りだした。しかし、足の速さで追手に勝てるわけがない。軽やかな足音が聞こえたと思った瞬間、腕をつかまれた。
「離して!」
逃れようと身をよじると、さらに強い力で腕を引っ張られ、リディアは図らずも相手の顔を正面からとらえた。滅多に見ることがない、エッジの真剣なまなざしが自分に注がれていた。
「逃げてどこへ行くって言うんだよ」
棘のある声に痛い指摘をされる。リディアは苦し紛れに視線を遠くへ見えるバブイルの塔へ向け、ふと思いついた考えを口にした。
「地底へ行って、幻界へ戻る」
「戻ってどうする」
「…王妃様を説得する。私を幻界へ置いてくださいって」
エッジは嫌味に感じられるほど大きなため息をついた。彼の落ち着きぶりが癪に障る。もう一度手を振りほどこうと試みるが、力でも勝てるわけがない。
動きを止める黒魔法を思いつき、リディアはエッジから顔をそらした。喉の奥で早口に詠唱を始めた瞬間、首に衝撃を感じ、呼吸が止まった。そのまま意識が遠のいていった。
「おかえり」と言いたかった。
エブラーナは彼女の故郷ではないのだから、「おかえり」というのはおかしいのかもしれない。それでも、これからリディアが長い時間を過ごす場所は幻界ではなく人間界になるだろうから、「おかえり」と言いたい気分だった。
彼女は、幻界を立ち去らなければいけなくなったことでだいぶ弱っているようだった。そうでなければ、とっさに自分に対して魔法を放つなどという発想に至らないだろう。意識を失わせて無理矢理城へ運び込むことになろうとは、想像もしていなかった。正当防衛だと思ったが、彼女の意思に反しているであろう自分の行動を申し訳なく感じた。
先日、幻界で怪我を負った際のことだ。手当てという名目で人払いをしたアスラが、沈んだ表情で独白のようにつぶやいた。
「…この日が来てしまいましたね」
彼女の言葉と悲しげな顔に、大変なことが起きてしまったという実感が湧いてきた。
近年、人間が幻獣に危害を加える事件は起きていなかった。人間たちは戦争からの復興に忙しく、明日食べるものと住む場所を手に入れることが最優先事項で、密猟まで手が回せなかったのだ。人間社会が落ち着きを取り戻したと思った矢先に今回のような事件が起きたのは皮肉としか言いようがない。
「大きな騒ぎにならなければいいんだが」
「私もそれを願っています。しかし…」
アスラはそこで一端言葉を切った。いつも冷静で、よどみなく物を述べる彼女には珍しいことだ。
視線をアスラの後ろにずらすと、いくつもの植物の鉢が並べられているのが目に入った。リディアがこの部屋で育てていたものだ。紫陽花が淡い青紫色の花を満開に咲かせていた。
「恥ずかしいことなのですが、こういう機会を待っていた者もいるのです。一部の人間による悪行を、人間社会を攻撃する口実にしようと」
「…そういう奴はどこでもいるだろう。あんたが責任を感じる必要はない」
「私が考えている問題は、彼らが誰を標的とするかです。今回、中心になった男たちはどこかの盗賊団の者でしょう。盗賊団を壊滅させることは大した労力を必要としないでしょうが、もし、彼らがさらなる混乱を望むのであれば」
「一緒にいたオレを狙うってことか」
うなずいたのか、うつむいたのか、アスラは苦悶の表情で下を向いた。人間にも害をなす闇組織の征伐は結果として社会に平穏をもたらすことになる。人間社会全体の崩壊を狙うのであれば、根拠が乏しいにしてもひとつの国家を攻撃する方が効果は大きいだろう。そもそも、彼らの人間への憎しみは、根拠など不要なのかもしれない。
人間の中には幻獣を血の通わない金塊とみなしている者がいる。一部のそういった者たちの言動によって、幻獣の中には人間全体に憎しみを抱いている者が少なからずいる。たまに幻獣の町へ行くたびに刺々しい気配を感じながらも、リディアの存在がそのような壁を溶かすだろうと希望的観測を持っていた。
しかし、我ながら見通しが甘かったようだ。きっと、同じことを期待していたであろうアスラも、眉間に皺を寄せた。
「もちろん、できる限りのことはします。もし私の力が及ばなかった場合には…エッジ殿、あなたに対処を任せます」
久々に体内の血がたぎるのを感じた。自分が戦いを好むのは、わかりやすいからだ。力と力がぶつかれば、勝敗が決まる。勝敗が決まれば敗者は勝者に従う。
「リディアも近いうちにあなたのところへ向かわせましょう。助けになるでしょうから」
「あいつが納得するかねえ」
アスラがふっと表情を緩めた。
「それもお任せしていいですか」
…任せられてもな。
今さら回想の中のアスラに不満をこぼしても遅いのだが、リディアの心神喪失状態を目の当たりにして、そう思わざるを得なかった。
笑い合ってくだらない話をするのは難しいかもしれないが、ただ、おかえりと言って、あわよくば抱きしめて彼女を迎えられればよかったのに。ささやかな願いはもろくも打ち砕かれたのであった。
目を開けると、見慣れない黒っぽい灰色の天井が視界に入ってきた。
寝不足のときのように頭が痛い。身体は重く、やっとの思いで手を額に当てた。
「起きたか」
声がした方にゆっくり顔を向けると、エッジが机に向かって何か書き物をしていた。その姿に、先ほどの出来事が思い出される。身体が重かったこともすっかり忘れ、リディアは勢いよく身を起こしてベッドの上から彼を睨みつけた。
「起きたか、じゃないわよ。自分で意識を失わせておいて」
「悪かったよ。でもお前が先に魔法を使おうとしただろ」
エッジは書き物をする手を止めず、視線も手元の紙に落としたままで反論した。その態度が腹に据えかねて、リディアはベッドから降りた。少しよろめいたが歩けないことはなさそうだ。
「エッジが王妃様に頼んだの?私を人間界へ戻せって」
相変わらず彼はリディアの抗議などどこ吹く風で、文字の墨を乾かすために紙にふっと息を吹きかけた。はぐらかされているということはきっと図星なのだろう。
「なんでそんな余計なことするの?私がどこでどう暮らそうと、関係ないじゃない。子供扱いして、私のことに干渉しないで」
エッジは乾いた紙を重ねて机の端に置いた。そしてやっと横に立つリディアを見上げ、蔑むかのように口の端を上げて短い息をついた。
「ああ、本当にお前はガキだな。オレが思ってたより、ずっと」
頭に血が上った。彼をめがけて手を振り下ろそうとすると、頬のすぐ横で手首をつかまれた。そのまま引っ張られ、リディアはエッジの肩に片方の手をついて身体を支えた。
「お前、まさかアスラとオレに意地悪されたとでも思ってるのか?どんだけガキなんだよ」
体勢を整える前に、彼は息がかかるくらい近くで、憐れむような冷たいまなざしと声を自分に向けた。
目をそらしたら負けだ。リディアは迫力に気圧されそうになる自分の心を叱咤して、ありったけの怒りと憎しみを込めて彼を睨んだ。
「もし突然、エブラーナにもう帰るなって言われたらどう思う?平気でいられる?」
「エブラーナと幻界を一緒にするなよ」
「一緒だよ。なんで違うって思えるの?」
エッジは心底呆れたかのように長い息を吐き出した。鋭い視線で見据えられたと思った瞬間、突然彼は椅子から立ち上がり、リディアの腕を引いた。急な動きにリディアはバランスを崩してエッジの背後に膝をついた。
「何するの!」
抗議の声を上げるが、エッジはリディアに背を向けたまますぐ横に置いていた二本の刀を手に取った。すらりと鞘から抜かれた刃の輝きにリディアは息を飲んだ。そこでやっと、周囲が禍々しい空気に覆われていることに気付いた。
目の前の空気が蜃気楼のようにゆらめき、ぼんやりとした像を形作り始めた。その姿がはっきりと見える濃さになったところで、リディアは息をのんだ。黒っぽいフードつきのローブで全身を覆ったその姿は、地底深くの町に住む幻獣の姿そのものだった。
「ようこそ、我が国へ」
エッジの顔には冷たい笑みが張り付いていた。頭の中が真っ白になった。何故このふたりが対峙しているのか全く理解できなかった。
実像を結んだ幻獣は苦しそうに肩で息をしていた。フードの奥の目がぎらりと光る。
「…結界とは生意気なことをする」
その言葉に、リディアは部屋の中のいたるところに何やら文字の書かれた紙が貼られていることに気付いた。ふと机の上に束になっている紙と見比べると、書かれているものが同じようにも見えた。これで結界を作っていたのだろうか。そうだとしたら、何のために?まさか幻獣を討ち取るために?疑問ばかりが脳裏に浮かび、答えは降りてこない。
「半信半疑だったんだけどな。意外と効き目があったみたいで驚いてるところだ」
エッジは飄々と応じながら、刀を構えた。みるみるうちに目の前の姿は巨大に膨れ上がり、銀色の毛に包まれた狼の様な四本足の獣の姿になった。フェンリルだった。
「リディア」
フェンリルの堂々とした低い声が周囲の空気をびりびりと震わせた。リディアは畏敬の念を抱きながら、エッジの横に立って向き合った。
「この男を倒して、共に幻界へ帰ろう」
その提案を理解するのに時間が必要だった。確かにエッジに対して先ほどまで激しい苛立ちを覚えていたが、倒すという発想はもちろんなかった。リディアは足元がふらつくのを感じた。
「…なんで、エッジを倒す必要があるの?」
フェンリルは今にも噛みつかんばかりの唸りを上げている。
「面白いことを言う。これまでの許しがたい人間の所業の数々に、今こそ復讐するときなのだ。もっとも、こんな辺境の国をいただいたくらいでは我々の恨みは晴れぬがな」
「エッジはドラゴンを守ろうとしたのよ。それなのに」
「リディア」
エッジの声が会話を遮った。
「下がってろ」
「やめて。まさか戦うつもり?」
「殺しにかかってくる相手には手加減できねえ」
言い終わるか否かという瞬間にフェンリルがエッジに飛びかかった。鋭い前足の一閃をすんでのところで身をかがめて避ける。すぐ横にあった机と椅子が大きな音を立ててつぶれ、フェンリルが着地すると石造りの部屋が低い音を立てて揺れた。
フェンリルが咆哮を上げた。鋭い牙がのぞく口からは舌が出ており、唾液が垂れている。苦しそうなのは、結界のせいなのだろうか。リディアはエッジの腕を両手でつかんだ。
「苦しそう。結界を解いてあげて!」
「解いたらオレがやられるだろうが!」
吐き捨てるように反論される。リディアは彼の腕を抱える手に力を込めた。
「エッジ、お願い、殺さないで!」
エッジはリディアに覆い被さるように床に伏せ、フェンリルの突進をかわした。天井がきしむ音を上げてぱらぱらと小石のようなものが落ちてきた。
起き上がりざまにエッジは鬼の形相でリディアを睨みつけた。
「何もしない奴が、指図するんじゃねえよ!」
言葉の意味が脳に浸透する前に、エッジは乱暴にリディアの手を振り払った。左手の刀が再度突進してきたフェンリルの眉間を捉え、黒い血が吹き出した。悲鳴のように聞こえる雄叫びを上げ、フェンリルがかまいたちのような鋭い風の刃をまとってエッジに体当たりする。至近距離でのその攻撃をよけきれず、エッジの身体は裂傷を負った上に突き飛ばされて壁に衝突した。くの字型に折れ曲がった彼の身体が床にずるずると落ちた。
「エッジ!」
苦痛に顔を歪める彼に駆け寄ろうとしたところ、フェンリルがおぼつかない足取りで彼と自分の間に立ちはだかった。こちらの怪我もひどかった。流れ出る黒い血が痛々しい。
「ごめんなさい…」
リディアは膝をついて、フェンリルの首に腕を回した。フェンリルがリディアの頬に鼻を寄せ、ぴくりと耳を動かした。
階下から足音とエッジの無事を確認しようとする声が聞こえてくる。忍軍だ。
「リディア、幻界へ帰ろう」
フェンリルがいつものように優しい声でささやいた。
先ほどまであれだけ幻界へ帰りたいと思っていたのに、リディアは自分の心が怖じ気づいていることに気づいた。エッジが大怪我をしているのを見捨てて帰ることなどできない。しかし、このままではフェンリルも危険だということはわかっていた。
フェンリルがリディアを前足の間に抱えるようにして古代語の呪文を唱え始めた。その時、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
「お館様!」
兵士たちが部屋の中の惨状を一瞥して顔色を変えた。視線がリディアの上に集まった。
「リディア様…!」
先頭にいた老兵士は見知った顔だった。リディアは彼の顔を直視することができず、うなだれた。
「…ごめんなさい」
謝罪の言葉とともに、双眸から涙が落ちた。温かい光の玉が自分とフェンリルを包み込む。
エッジの姿は巨大な身体の陰になって見えない。リディアはフェンリルの鼻先を撫でた。
「…先に帰っていて」
そして、輝く球体からから飛び出した。自分の名を呼ぶ声が遠くへ消えていった。
夕暮れなのか、空は赤く燃えていた。草花の青っぽく甘い香りに、新鮮な土と水のにおいが混ざっている。
すぐそばで水が流れる音が聞こえた。青々とした草原の中を歩いていくと、穏やかな川にぶつかった。川幅はそれほど広くなく、深ささえなければ十歩ほどで飛び越えられそうだった。
対岸には金色に輝く草原が続いていた。エッジはまさかと思い、周囲を見渡した。案の定、すぐ近くに一艘の船が止まっていた。笠を身に着けた船頭がこちらに気が付き、会釈をした。
衣嚢に手を突っ込む。嘘のように、穴の開いた貨幣が六枚入っていた。
六文銭。エッジは思わず吹き出した。今、自分は三途の川の前にいるらしい。あまりにも聞いていた通りで、笑わざるを得ない。
この場で川を渡らなければどうなるのだろう。興味本位からエッジはその場に寝転んだ。大地の緑の濃厚な芳香が鼻をつく。美しい夕焼けの時間は短いはずなのに、一向に景色が変わる気配がない。
これは敗北なのだろうか。エッジはふと考えた。もし自分だけが死んだとしたら敗北だろう。しかし相手にも致命傷を与えた自信があった。相手も死んだとしたら引き分けになるのだろうか、それとも両方負けになるのだろうか。どちらにしても、決着がつかなかったとしたら、この戦いには意味がなかったように思えた。
勝者が自分の信念を守るために、敗者を従えるか、排除するのが戦いだ。両者の信念がぶつかって、双方とも消えたとしたら、世界には何も残らない。
そもそも今回の戦いで守りたかった信念とは何だったのだろうか。考える限り、不当な殺意に対する自分の存在を賭けた戦いだった。その戦いに生死を委ねる価値があったのだろうか。
殺し合いという手段は、自分の信念を貫くために一番いい方法ではないのかもしれない。今にも泣き出しそうな悲壮な面持ちで自分を止めようとする愛しい女の顔が思い出された。
エッジは勢いよく起き上がった。硬貨を一枚取り出し、川に沿わせるような角度で投げ込んだ。穴の開いたコインは、太陽の光を反射して輝く水面を二回弾いて、途中で川に飲まれた。舌打ちをする。もう一枚。軌跡が対岸の金色の草叢に飲み込まれていき、エッジは思わず笑みを浮かべて、小さく拳を握りしめた。
残りの四枚は上に放り投げて、川へ捨てた。水面が音を立ててわずかに跳ね上がり、何事もなかったかのように穏やかな流れに戻った。
ふと先ほど船があった場所へ顔を向けると、船頭ごと消えていた。
ぼんやりとした視界が緑一色の世界を捉えた。
白詰草のような甘い香りが漂っている。まだ草原で眠っているのだろうか。何度か瞬きをすると、輪郭が浮かび上がってきた。それは頭だった。
長い睫毛は伏せられていて、安らかな呼吸が聞こえる。リディアが腕を枕にして、頭だけを自分の横に置いて眠っていた。
手を伸ばして彼女の髪の毛を一房つかんだ。絹糸のようになめらかなその束は、力のない指の隙間から逃げるように滑り落ちて行った。
「ん…」
瞼がゆっくりと開き、髪の毛をもてあそぶ手の動きを捉えた。ゆっくりと身を起こしてぱちぱちと目をしばたたかせ、視線が合った瞬間、大きな瞳が涙で一気に潤んだ。
「エッジ」
リディアが首に抱きついてくる。現実とはにわかに信じがたく、エッジは恐る恐る彼女の背中に片腕を回した。
「…リディア?オレ死んでないよな?」
自分の声はかすれていた。耳元で笑い声が聞こえた。
「何言ってるの。生きてるよ。よかった」
リディアは鼻をすすりながら、細い手でエッジの頭を撫でた。都合が良すぎてますます非現実的だ。そこで、彼女を強く抱きしめようとしたら、腕に力が入らなかった。この間の悪さは現実なのかもしれないな、とエッジはひそかに苦笑いを浮かべた。
何が起きたか思い出そうとすると、頭に鈍い痛みが走った。彼女が幻獣と共に光に包まれるところが最後の記憶だった。
「お前、幻界へ帰らなかったのか」
リディアは顔を離して、こくりとうなずいた。取り繕ったような笑顔に不安が掻き立てられる。苦渋の決断だったのだろうということがうかがい知れた。
彼女の顔を下から見上げるのがいやで、エッジは重い身体を起こそうと肘に力を入れた。リディアが背中を支えて助けてくれた。そこでやっと自分の身体を眺め、全身を包帯で巻かれていることに気付いた。自分に塗られたものだろうが、薬草のにおいが鼻についた。
「あ、そうだ。エッジが起きたら呼んでくださいって言われてたんだった」
リディアが席を立とうとしたので、腕をつかんだ。もう少しふたりで話がしたかった。力は入らなかったが、意図は通じたようで、リディアは浮かせた腰を椅子に戻した。
やがてリディアが潤んだ瞳を伏せ、震える声を紡ぎ出した。
「…エッジ、ごめんね。私、何もできなくて」
ぼんやりとしていた記憶の中から自分がとっさに吐いた暴言が引っ張り出され、エッジは苦い気分になった。
−−−何もしない奴が、指図するんじゃねえよ!
リディアは唇を噛み、今にも泣きだしそうな顔でうつむいた。
「本当に言う通り。私は戦ってほしくないって言うだけで、何もしなかったの。自分の考えが絶対に正しいから、自然にわかってもらえて当たり前と思ってた」
腕をつかんでいた手を、彼女の手の甲に移動させる。リディアの冷たい手が、ぎゅっとエッジの指を包み込んだ。
「あの時、私はふたりの間に入って、きちんと話をするべきだった。きっと、王妃様もそのために私をエブラーナに送ってくれたのに、それに気付かないで…」
彼女に投げかけたもうひとつの暴言を思い出し、エッジは額に手を当てた。幻獣の襲撃に備えて気が立っていたとはいえ、言い過ぎた。彼女の指を握り返し、エッジは嘆息した。
「ひどいこと言って悪かった。オレも、やっとお前の言ってることがわかった気がするんだ。戦うっていう形は最適解じゃねえ。だから、この事態をどうすればいいのか考えたい」
リディアは少し驚いたように目を見開いた後、笑顔を浮かべてうなずいた。
「私、エッジが眠っている間に、ずっとそれを考えてたんだ」
地上では二週間ほどのことだったが、幻界ではリディアの安否が心配される程度の長い時間が過ぎていたようだった。住民たちはリディアの帰還を手放しで歓迎した。
しかし、リディアの隣に立つエッジの姿に気がつくと、露骨に嫌悪感を示す者もいた。リディアは気が気でなかったが、エッジは心ない言葉や態度を黙って受け止めていた。
リヴァイアサンは涙を流さんばかりの勢いで喜び、同行したエッジに何度も感謝の言葉を述べた。一方、アスラはふたりの訪問者の顔を見て、何かを諦めたかのように嘆息した。
「帰ってきたということは、本当に幻界で一生を過ごすつもりですか」
あのときとっさに出た自分の言葉を確認するアスラに対し、リディアは首を横に振った。
「…いいえ」
硬い表情のアスラに何から伝えるべきだろうか。隣に立つエッジの顔を見上げると、彼は真摯なまなざしを幻獣王夫妻に投げかけていた。
「今日は、あんたたちにひとつ提案しにきたんだ。幻界と人間界で不可侵条約を結びたい」
エッジの提案に、アスラは表情を変えず、リヴァイアサンは目を見開いた後、口元に笑みを浮かべた。エッジはふたりの反応を確かめた後、分厚い紙を取り出した。
「人間界のすべての国や自治区の首長はこの条約制定に賛同している。あとはあんたがこれに同意してくれればいい。これがあれば、もし人間界で幻獣に手を出すような奴がいたら、法で厳しく裁かれることになる」
逆もしかりだ。もし、幻獣が人間を手にかけた場合は、幻獣王がその者を処罰するということになっている。
リヴァイアサンが紙を手に取って顎に手を当てた。アスラが横から書類を覗き込んだ後、エッジを見据えて厳しい口調で問いかけた。
「この前のような国を持たぬ、賊による侵略はどのように防ぐのです?」
「私がやります」
リディアは勇気を振り絞って声を上げた。力が入りすぎて、思いのほか、大きい声になってしまった。
「…私が、責任を持って人間の密猟集団の活動を抑えて、幻界へ立ち入らせないようにします。また、万が一、幻獣王様、王妃様の監視をかいくぐった幻獣が人間界で何らかの危害を及ぼそうとした場合には、私が彼らを説得します」
「リディア、あなたひとりでできるのですか」
「私ひとりではないです」
リディアは隣にいるエッジの顔を見上げた。エッジはうなずいて、リディアの言葉を引き継いだ。
「エブラーナの密偵を世界各地へ配置する。何か妙な動きがあったら、すぐにオレとリディアの耳に入れるようにする」
エッジはそこで言葉を切った。そして、自信満々ににやりと目を細めた。
「あんたたちの娘だけを危ない目には遭わせないから安心してくれ」
エッジの言葉に、リヴァイアサンが顔をほころばせた。
「いい案だと思うが」
夫に促され、アスラは長い息を吐き出し、降参と言わんばかりの顔をした。
「わかりました。これでやってみましょう」
リディアは両親に抱きついた。こんな風に素直に喜びを表現するのは久方ぶりのように感じられた。
「この前、オレが斬りつけた幻獣は無事か」
エッジの問いかけに、アスラが無言でうなずいた。リディアは嬉しさでその場に倒れ込みたくなる気持ちを必死で抑えた。エッジも安堵の息をついた。安堵感へ釘を刺すかのように、アスラが言葉を継いで、居室の入口へ視線を向けた。
「…ただ、消えない傷が残りましたが」
強大な魔力と禍々しい気配を感じ、リディアは振り返った。そこにいるフードをかぶった人物は、人間の姿をしたフェンリルだとわかった。彼が黒いフードをとると、左の眉の付け根から右の頬まで、斜めに刀傷が走っていた。リディアは痛々しいその傷跡から目をそらしたい気持ちになった。
「幻獣王様。本当に、人間とくだらぬ協定を結ぶのですか」
憎悪に燃える瞳が、エッジと幻獣王夫妻に向けられていた。リヴァイアサンは穏やかな顔をしたまま、長い顎髭に触れながら答えた。
「そのつもりじゃ」
「何故そのような愚かな決断をされるのですか!元々悪行を始めた憎い人間を、何故成敗してはいけないのですか!」
食い下がるフェンリルの主張を、幻獣王は一笑に付した。
「おぬしらは、自分が抱いている感情の根源も考えず、ただ盲目的に人間を憎むことで自らの存在を確固たるものと認識しているのではないか。そうであれば、憎い人間に依存していることになる。まことにくだらない」
リヴァイアサンの静かな物言いに、フェンリルは返す言葉を失ったようだった。リディアはセシルに出会ったばかりの頃の自分を思い出した。憎むことが生きる力になっているとしたら、それはとても悲しいことだ。憎しみを乗り越えたところにある感情を彼らに伝えたい。
エッジが歩を進めて、フェンリルの前に立った。フェンリルが身構える。
「その傷、悪かったな。あのときのオレには、殺すっていう選択肢しか思い浮かばなかったんだ。とりあえず、生きてて良かった」
エッジは腰に下げていた刀を外し、一本は床に投げ捨て、もう一本は鞘ごとフェンリルに差し出した。
「オレはこれからリディアと一緒に、愚かな奴らから幻獣を守るために力を尽くすつもりだ。それでもその傷の恨みを受け止める責任があると思う。だから」
エッジの手から刀がひったくるように奪われた。身体が鉛のように重くなり、動けない。目の前で繰り広げられていることから目を背けることもできない。
「お願い、やめて!」
何とか絞り出した悲鳴と同時に鞘から放たれた白銀色の刃が光り、次の瞬間鋭い線を描いた。
エッジは避けようともせずに、その一閃を受け止めた。少し遅れて、彼の右目から頬にかけて玉のように血が滲み、みるみるうちに鮮血が溢れ出した。
呪いが解けたかのように、足が一歩踏み出した。リディアはよろよろと向き合うフェンリルとエッジの間に立った。
フェンリルは苦悶の表情でリディアを見据えた。刀を持つ手が震えている。フェンリルが放った刀が固い音を立てて床に落ちた。
流れる血に構わず、エッジは立ち尽くしたままで口の端を上げた。
「いい腕だ」
リディアは悟った。自分は最初の任務に失敗した。そして、前途は自分が想像していたよりもずっと多難なのだと。
リヴァイアサンが条約の書類に署名をした。喜び勇んで書類を携えてさっそく地上へ戻ろうとした時、アスラに呼び止められた。
「リディア。あなたには人間界での重要な任務ができました。それを全うするまで幻界へ来てはなりません」
リヴァイアサンとエッジが、同時にリディアへ視線を向けた。
アスラの言うことはもっともだった。これまで自分は、特になすべきこともなく幻界とミストを行き来して自由奔放に生活していた。これからはやらなければならないことが山ほどあるだろう。自分に重要な役割を与えてくれた人々の期待に応えるためにも、しばらくはその仕事に没頭しようと思った。
「はい。わかりました。一日も早くこの務めを果たし、人間と幻獣が穏やかに共生できる環境を作ります」
そう宣言すると、アスラはうなずいて、久々に笑顔を見せた。リディアももう一度うなずいて応じた。直後にリヴァイアサンが発した「たまには来るんじゃぞ」というささやきはその場にいた全員に聞こえる音量で、リディアとエッジは吹き出し、アスラは夫を呆れたように睨みつけた。
「忘れ物はないか?」
声に回想から現実の世界へ呼び戻される。エッジが手の埃を払いながら部屋を見回した。
リディアは部屋の壁際に置かれた植物をじっと見つめた。なんとかして持って行きたいと考えを巡らしていると、エッジが眉間に皺を寄せた。
「これ、もともとエブラーナの植物だろ。戻ったら種でも苗でも好きなだけやるから、あきらめて置いてこうぜ」
リディアはしぶしぶ首を縦に振った。大輪の花を咲かせている紫陽花の大きな緑の葉に触れると、ひんやりとしていて、内側の水分が感じられた。
エッジは荷物を持ち上げた。持っていく物はほとんどが本と自分がこれまでに書いた記録の紙だった。
植物と家具だけが残った部屋は、自分がこれまで住んでいた空間とは似ても似つかなかった。リディアはもう一度部屋全体を眺め、扉を閉めた。
部屋の外で待っていたリヴァイアサンがリディアを抱きしめた。
「がんばるんじゃぞ」
「はい。幻獣王様もお元気で」
自然と背中に回す手に力が入る。凝りもせずに「いつでも戻ってくるのじゃよ」と言われ、リディアはくすりと笑った。身体を離すとリヴァイアサンはエッジを手招きし、耳元で何やら囁いた。エッジはそれを聞いて勢いよく吹き出し、続いて頬を掻いた。何を話しているのか、皆目見当がつかない。
「リディア」
凛とした声が自分の名を呼んだ。リディアはアスラの前に立ち、深く頭を下げた。
「王妃様、本当にありがとうございました」
頭を上げると穏やかな微笑みをたたえたアスラがそこにいた。リディアは唇を噛んで涙を押し止めた。
「こちらこそお礼を言わねばなりません。これからあなたがなすことは、私の長年の悲願でもあるのです。…また会える日まで、息災で」
こらえきれず、涙が一滴落ちた。アスラの腕が自分を優しく包む。
「…はい。私が自分の務めを果たし、またお会いできる日まで」
アスラから離れると、エッジがアスラに手を差し出した。無言で握手を交わし、両者は決意に満ちた強い視線のまま、口元をほころばせた。
久しぶりに帰ったミストは相変わらずのどかだった。建物の修復はほぼ終わりつつあり、民家の裏の農地には、背の伸びた麦が穂を揺らしていた。
母の墓の前にそなえられた白い百合の花が風で花びらを揺らした。芳醇な香りが辺りに漂った。
「じゃあまたな」
墓参を終え、晴れやかな顔で一時の別れを宣言するエッジに、リディアの胸が痛んだ。
エッジの顔の半分は黒い布に覆われていた。彼は、傷がきれいに消えてしまうかもしれない、と言い張ってアスラによる回復魔法を頑に受け入れなかったのだった。
痛みや、隠されている傷跡を想像すると、いたたまれない気持ちになる。しかし、きっと自分は、彼がこの傷に込めた意図をすべて理解できていないだろうとも思っていた。
リディアは黒い布に隠された頬にそっと手を添え、決意を口にした。
「…エッジのこの傷を最後にするよ。幻獣が人間につけた、最後の傷」
「逆もそうしなきゃな」
明るい声で応じ、エッジは添えられた手に大きな手を重ねた。軽く握られた後、絡んだ指が解かれ、彼は踵を返した。
後ろ姿を見送る。数歩進んだところで「ああ、そうだ」とエッジが思い出したようにつぶやいて足を止め、自分を振り返った。
「おかえり、リディア」
温かい言葉に、自然と顔がほころんだ。
「ただいま!」
エッジが満足げに白い歯を見せ、小さく手を振った。リディアも胸の高さで手を振り返す。
彼が再度背を向けたところで、リディアは青空を見上げた。巣立ったばかりであろう、小さなつばめが飛んでいた。滑らかな軌跡は、青いキャンバスに雄大な絵を描いているようだった。
end
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あとがきはこちら。(リンク)
幻界にエブラーナの植物?という話はこちら。
『紫陽花』
この続きになるのでしょうかという話。
『天国と地獄』
SS一覧へ戻る場合はこちら。
振り返ると、無骨というほかない、装飾の少ない灰色の石を積み上げた砦のような城が少し先にそびえたっていた。
…エブラーナだ。
記憶の中の風景と合致して、リディアは現在地を知る。
何故エブラーナに移動させられたのだろうか。考えられる可能性はいくつかある。しかしそのうちのどれも、リディアには納得できなかった。
その時、重厚な城門が重い音を立ててわずかに開き、その隙間から出てくる影があった。リディアは反射的にその影から逃れようと、海岸線沿いに走りだした。しかし、足の速さで追手に勝てるわけがない。軽やかな足音が聞こえたと思った瞬間、腕をつかまれた。
「離して!」
逃れようと身をよじると、さらに強い力で腕を引っ張られ、リディアは図らずも相手の顔を正面からとらえた。滅多に見ることがない、エッジの真剣なまなざしが自分に注がれていた。
「逃げてどこへ行くって言うんだよ」
棘のある声に痛い指摘をされる。リディアは苦し紛れに視線を遠くへ見えるバブイルの塔へ向け、ふと思いついた考えを口にした。
「地底へ行って、幻界へ戻る」
「戻ってどうする」
「…王妃様を説得する。私を幻界へ置いてくださいって」
エッジは嫌味に感じられるほど大きなため息をついた。彼の落ち着きぶりが癪に障る。もう一度手を振りほどこうと試みるが、力でも勝てるわけがない。
動きを止める黒魔法を思いつき、リディアはエッジから顔をそらした。喉の奥で早口に詠唱を始めた瞬間、首に衝撃を感じ、呼吸が止まった。そのまま意識が遠のいていった。
「おかえり」と言いたかった。
エブラーナは彼女の故郷ではないのだから、「おかえり」というのはおかしいのかもしれない。それでも、これからリディアが長い時間を過ごす場所は幻界ではなく人間界になるだろうから、「おかえり」と言いたい気分だった。
彼女は、幻界を立ち去らなければいけなくなったことでだいぶ弱っているようだった。そうでなければ、とっさに自分に対して魔法を放つなどという発想に至らないだろう。意識を失わせて無理矢理城へ運び込むことになろうとは、想像もしていなかった。正当防衛だと思ったが、彼女の意思に反しているであろう自分の行動を申し訳なく感じた。
先日、幻界で怪我を負った際のことだ。手当てという名目で人払いをしたアスラが、沈んだ表情で独白のようにつぶやいた。
「…この日が来てしまいましたね」
彼女の言葉と悲しげな顔に、大変なことが起きてしまったという実感が湧いてきた。
近年、人間が幻獣に危害を加える事件は起きていなかった。人間たちは戦争からの復興に忙しく、明日食べるものと住む場所を手に入れることが最優先事項で、密猟まで手が回せなかったのだ。人間社会が落ち着きを取り戻したと思った矢先に今回のような事件が起きたのは皮肉としか言いようがない。
「大きな騒ぎにならなければいいんだが」
「私もそれを願っています。しかし…」
アスラはそこで一端言葉を切った。いつも冷静で、よどみなく物を述べる彼女には珍しいことだ。
視線をアスラの後ろにずらすと、いくつもの植物の鉢が並べられているのが目に入った。リディアがこの部屋で育てていたものだ。紫陽花が淡い青紫色の花を満開に咲かせていた。
「恥ずかしいことなのですが、こういう機会を待っていた者もいるのです。一部の人間による悪行を、人間社会を攻撃する口実にしようと」
「…そういう奴はどこでもいるだろう。あんたが責任を感じる必要はない」
「私が考えている問題は、彼らが誰を標的とするかです。今回、中心になった男たちはどこかの盗賊団の者でしょう。盗賊団を壊滅させることは大した労力を必要としないでしょうが、もし、彼らがさらなる混乱を望むのであれば」
「一緒にいたオレを狙うってことか」
うなずいたのか、うつむいたのか、アスラは苦悶の表情で下を向いた。人間にも害をなす闇組織の征伐は結果として社会に平穏をもたらすことになる。人間社会全体の崩壊を狙うのであれば、根拠が乏しいにしてもひとつの国家を攻撃する方が効果は大きいだろう。そもそも、彼らの人間への憎しみは、根拠など不要なのかもしれない。
人間の中には幻獣を血の通わない金塊とみなしている者がいる。一部のそういった者たちの言動によって、幻獣の中には人間全体に憎しみを抱いている者が少なからずいる。たまに幻獣の町へ行くたびに刺々しい気配を感じながらも、リディアの存在がそのような壁を溶かすだろうと希望的観測を持っていた。
しかし、我ながら見通しが甘かったようだ。きっと、同じことを期待していたであろうアスラも、眉間に皺を寄せた。
「もちろん、できる限りのことはします。もし私の力が及ばなかった場合には…エッジ殿、あなたに対処を任せます」
久々に体内の血がたぎるのを感じた。自分が戦いを好むのは、わかりやすいからだ。力と力がぶつかれば、勝敗が決まる。勝敗が決まれば敗者は勝者に従う。
「リディアも近いうちにあなたのところへ向かわせましょう。助けになるでしょうから」
「あいつが納得するかねえ」
アスラがふっと表情を緩めた。
「それもお任せしていいですか」
…任せられてもな。
今さら回想の中のアスラに不満をこぼしても遅いのだが、リディアの心神喪失状態を目の当たりにして、そう思わざるを得なかった。
笑い合ってくだらない話をするのは難しいかもしれないが、ただ、おかえりと言って、あわよくば抱きしめて彼女を迎えられればよかったのに。ささやかな願いはもろくも打ち砕かれたのであった。
目を開けると、見慣れない黒っぽい灰色の天井が視界に入ってきた。
寝不足のときのように頭が痛い。身体は重く、やっとの思いで手を額に当てた。
「起きたか」
声がした方にゆっくり顔を向けると、エッジが机に向かって何か書き物をしていた。その姿に、先ほどの出来事が思い出される。身体が重かったこともすっかり忘れ、リディアは勢いよく身を起こしてベッドの上から彼を睨みつけた。
「起きたか、じゃないわよ。自分で意識を失わせておいて」
「悪かったよ。でもお前が先に魔法を使おうとしただろ」
エッジは書き物をする手を止めず、視線も手元の紙に落としたままで反論した。その態度が腹に据えかねて、リディアはベッドから降りた。少しよろめいたが歩けないことはなさそうだ。
「エッジが王妃様に頼んだの?私を人間界へ戻せって」
相変わらず彼はリディアの抗議などどこ吹く風で、文字の墨を乾かすために紙にふっと息を吹きかけた。はぐらかされているということはきっと図星なのだろう。
「なんでそんな余計なことするの?私がどこでどう暮らそうと、関係ないじゃない。子供扱いして、私のことに干渉しないで」
エッジは乾いた紙を重ねて机の端に置いた。そしてやっと横に立つリディアを見上げ、蔑むかのように口の端を上げて短い息をついた。
「ああ、本当にお前はガキだな。オレが思ってたより、ずっと」
頭に血が上った。彼をめがけて手を振り下ろそうとすると、頬のすぐ横で手首をつかまれた。そのまま引っ張られ、リディアはエッジの肩に片方の手をついて身体を支えた。
「お前、まさかアスラとオレに意地悪されたとでも思ってるのか?どんだけガキなんだよ」
体勢を整える前に、彼は息がかかるくらい近くで、憐れむような冷たいまなざしと声を自分に向けた。
目をそらしたら負けだ。リディアは迫力に気圧されそうになる自分の心を叱咤して、ありったけの怒りと憎しみを込めて彼を睨んだ。
「もし突然、エブラーナにもう帰るなって言われたらどう思う?平気でいられる?」
「エブラーナと幻界を一緒にするなよ」
「一緒だよ。なんで違うって思えるの?」
エッジは心底呆れたかのように長い息を吐き出した。鋭い視線で見据えられたと思った瞬間、突然彼は椅子から立ち上がり、リディアの腕を引いた。急な動きにリディアはバランスを崩してエッジの背後に膝をついた。
「何するの!」
抗議の声を上げるが、エッジはリディアに背を向けたまますぐ横に置いていた二本の刀を手に取った。すらりと鞘から抜かれた刃の輝きにリディアは息を飲んだ。そこでやっと、周囲が禍々しい空気に覆われていることに気付いた。
目の前の空気が蜃気楼のようにゆらめき、ぼんやりとした像を形作り始めた。その姿がはっきりと見える濃さになったところで、リディアは息をのんだ。黒っぽいフードつきのローブで全身を覆ったその姿は、地底深くの町に住む幻獣の姿そのものだった。
「ようこそ、我が国へ」
エッジの顔には冷たい笑みが張り付いていた。頭の中が真っ白になった。何故このふたりが対峙しているのか全く理解できなかった。
実像を結んだ幻獣は苦しそうに肩で息をしていた。フードの奥の目がぎらりと光る。
「…結界とは生意気なことをする」
その言葉に、リディアは部屋の中のいたるところに何やら文字の書かれた紙が貼られていることに気付いた。ふと机の上に束になっている紙と見比べると、書かれているものが同じようにも見えた。これで結界を作っていたのだろうか。そうだとしたら、何のために?まさか幻獣を討ち取るために?疑問ばかりが脳裏に浮かび、答えは降りてこない。
「半信半疑だったんだけどな。意外と効き目があったみたいで驚いてるところだ」
エッジは飄々と応じながら、刀を構えた。みるみるうちに目の前の姿は巨大に膨れ上がり、銀色の毛に包まれた狼の様な四本足の獣の姿になった。フェンリルだった。
「リディア」
フェンリルの堂々とした低い声が周囲の空気をびりびりと震わせた。リディアは畏敬の念を抱きながら、エッジの横に立って向き合った。
「この男を倒して、共に幻界へ帰ろう」
その提案を理解するのに時間が必要だった。確かにエッジに対して先ほどまで激しい苛立ちを覚えていたが、倒すという発想はもちろんなかった。リディアは足元がふらつくのを感じた。
「…なんで、エッジを倒す必要があるの?」
フェンリルは今にも噛みつかんばかりの唸りを上げている。
「面白いことを言う。これまでの許しがたい人間の所業の数々に、今こそ復讐するときなのだ。もっとも、こんな辺境の国をいただいたくらいでは我々の恨みは晴れぬがな」
「エッジはドラゴンを守ろうとしたのよ。それなのに」
「リディア」
エッジの声が会話を遮った。
「下がってろ」
「やめて。まさか戦うつもり?」
「殺しにかかってくる相手には手加減できねえ」
言い終わるか否かという瞬間にフェンリルがエッジに飛びかかった。鋭い前足の一閃をすんでのところで身をかがめて避ける。すぐ横にあった机と椅子が大きな音を立ててつぶれ、フェンリルが着地すると石造りの部屋が低い音を立てて揺れた。
フェンリルが咆哮を上げた。鋭い牙がのぞく口からは舌が出ており、唾液が垂れている。苦しそうなのは、結界のせいなのだろうか。リディアはエッジの腕を両手でつかんだ。
「苦しそう。結界を解いてあげて!」
「解いたらオレがやられるだろうが!」
吐き捨てるように反論される。リディアは彼の腕を抱える手に力を込めた。
「エッジ、お願い、殺さないで!」
エッジはリディアに覆い被さるように床に伏せ、フェンリルの突進をかわした。天井がきしむ音を上げてぱらぱらと小石のようなものが落ちてきた。
起き上がりざまにエッジは鬼の形相でリディアを睨みつけた。
「何もしない奴が、指図するんじゃねえよ!」
言葉の意味が脳に浸透する前に、エッジは乱暴にリディアの手を振り払った。左手の刀が再度突進してきたフェンリルの眉間を捉え、黒い血が吹き出した。悲鳴のように聞こえる雄叫びを上げ、フェンリルがかまいたちのような鋭い風の刃をまとってエッジに体当たりする。至近距離でのその攻撃をよけきれず、エッジの身体は裂傷を負った上に突き飛ばされて壁に衝突した。くの字型に折れ曲がった彼の身体が床にずるずると落ちた。
「エッジ!」
苦痛に顔を歪める彼に駆け寄ろうとしたところ、フェンリルがおぼつかない足取りで彼と自分の間に立ちはだかった。こちらの怪我もひどかった。流れ出る黒い血が痛々しい。
「ごめんなさい…」
リディアは膝をついて、フェンリルの首に腕を回した。フェンリルがリディアの頬に鼻を寄せ、ぴくりと耳を動かした。
階下から足音とエッジの無事を確認しようとする声が聞こえてくる。忍軍だ。
「リディア、幻界へ帰ろう」
フェンリルがいつものように優しい声でささやいた。
先ほどまであれだけ幻界へ帰りたいと思っていたのに、リディアは自分の心が怖じ気づいていることに気づいた。エッジが大怪我をしているのを見捨てて帰ることなどできない。しかし、このままではフェンリルも危険だということはわかっていた。
フェンリルがリディアを前足の間に抱えるようにして古代語の呪文を唱え始めた。その時、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
「お館様!」
兵士たちが部屋の中の惨状を一瞥して顔色を変えた。視線がリディアの上に集まった。
「リディア様…!」
先頭にいた老兵士は見知った顔だった。リディアは彼の顔を直視することができず、うなだれた。
「…ごめんなさい」
謝罪の言葉とともに、双眸から涙が落ちた。温かい光の玉が自分とフェンリルを包み込む。
エッジの姿は巨大な身体の陰になって見えない。リディアはフェンリルの鼻先を撫でた。
「…先に帰っていて」
そして、輝く球体からから飛び出した。自分の名を呼ぶ声が遠くへ消えていった。
夕暮れなのか、空は赤く燃えていた。草花の青っぽく甘い香りに、新鮮な土と水のにおいが混ざっている。
すぐそばで水が流れる音が聞こえた。青々とした草原の中を歩いていくと、穏やかな川にぶつかった。川幅はそれほど広くなく、深ささえなければ十歩ほどで飛び越えられそうだった。
対岸には金色に輝く草原が続いていた。エッジはまさかと思い、周囲を見渡した。案の定、すぐ近くに一艘の船が止まっていた。笠を身に着けた船頭がこちらに気が付き、会釈をした。
衣嚢に手を突っ込む。嘘のように、穴の開いた貨幣が六枚入っていた。
六文銭。エッジは思わず吹き出した。今、自分は三途の川の前にいるらしい。あまりにも聞いていた通りで、笑わざるを得ない。
この場で川を渡らなければどうなるのだろう。興味本位からエッジはその場に寝転んだ。大地の緑の濃厚な芳香が鼻をつく。美しい夕焼けの時間は短いはずなのに、一向に景色が変わる気配がない。
これは敗北なのだろうか。エッジはふと考えた。もし自分だけが死んだとしたら敗北だろう。しかし相手にも致命傷を与えた自信があった。相手も死んだとしたら引き分けになるのだろうか、それとも両方負けになるのだろうか。どちらにしても、決着がつかなかったとしたら、この戦いには意味がなかったように思えた。
勝者が自分の信念を守るために、敗者を従えるか、排除するのが戦いだ。両者の信念がぶつかって、双方とも消えたとしたら、世界には何も残らない。
そもそも今回の戦いで守りたかった信念とは何だったのだろうか。考える限り、不当な殺意に対する自分の存在を賭けた戦いだった。その戦いに生死を委ねる価値があったのだろうか。
殺し合いという手段は、自分の信念を貫くために一番いい方法ではないのかもしれない。今にも泣き出しそうな悲壮な面持ちで自分を止めようとする愛しい女の顔が思い出された。
エッジは勢いよく起き上がった。硬貨を一枚取り出し、川に沿わせるような角度で投げ込んだ。穴の開いたコインは、太陽の光を反射して輝く水面を二回弾いて、途中で川に飲まれた。舌打ちをする。もう一枚。軌跡が対岸の金色の草叢に飲み込まれていき、エッジは思わず笑みを浮かべて、小さく拳を握りしめた。
残りの四枚は上に放り投げて、川へ捨てた。水面が音を立ててわずかに跳ね上がり、何事もなかったかのように穏やかな流れに戻った。
ふと先ほど船があった場所へ顔を向けると、船頭ごと消えていた。
ぼんやりとした視界が緑一色の世界を捉えた。
白詰草のような甘い香りが漂っている。まだ草原で眠っているのだろうか。何度か瞬きをすると、輪郭が浮かび上がってきた。それは頭だった。
長い睫毛は伏せられていて、安らかな呼吸が聞こえる。リディアが腕を枕にして、頭だけを自分の横に置いて眠っていた。
手を伸ばして彼女の髪の毛を一房つかんだ。絹糸のようになめらかなその束は、力のない指の隙間から逃げるように滑り落ちて行った。
「ん…」
瞼がゆっくりと開き、髪の毛をもてあそぶ手の動きを捉えた。ゆっくりと身を起こしてぱちぱちと目をしばたたかせ、視線が合った瞬間、大きな瞳が涙で一気に潤んだ。
「エッジ」
リディアが首に抱きついてくる。現実とはにわかに信じがたく、エッジは恐る恐る彼女の背中に片腕を回した。
「…リディア?オレ死んでないよな?」
自分の声はかすれていた。耳元で笑い声が聞こえた。
「何言ってるの。生きてるよ。よかった」
リディアは鼻をすすりながら、細い手でエッジの頭を撫でた。都合が良すぎてますます非現実的だ。そこで、彼女を強く抱きしめようとしたら、腕に力が入らなかった。この間の悪さは現実なのかもしれないな、とエッジはひそかに苦笑いを浮かべた。
何が起きたか思い出そうとすると、頭に鈍い痛みが走った。彼女が幻獣と共に光に包まれるところが最後の記憶だった。
「お前、幻界へ帰らなかったのか」
リディアは顔を離して、こくりとうなずいた。取り繕ったような笑顔に不安が掻き立てられる。苦渋の決断だったのだろうということがうかがい知れた。
彼女の顔を下から見上げるのがいやで、エッジは重い身体を起こそうと肘に力を入れた。リディアが背中を支えて助けてくれた。そこでやっと自分の身体を眺め、全身を包帯で巻かれていることに気付いた。自分に塗られたものだろうが、薬草のにおいが鼻についた。
「あ、そうだ。エッジが起きたら呼んでくださいって言われてたんだった」
リディアが席を立とうとしたので、腕をつかんだ。もう少しふたりで話がしたかった。力は入らなかったが、意図は通じたようで、リディアは浮かせた腰を椅子に戻した。
やがてリディアが潤んだ瞳を伏せ、震える声を紡ぎ出した。
「…エッジ、ごめんね。私、何もできなくて」
ぼんやりとしていた記憶の中から自分がとっさに吐いた暴言が引っ張り出され、エッジは苦い気分になった。
−−−何もしない奴が、指図するんじゃねえよ!
リディアは唇を噛み、今にも泣きだしそうな顔でうつむいた。
「本当に言う通り。私は戦ってほしくないって言うだけで、何もしなかったの。自分の考えが絶対に正しいから、自然にわかってもらえて当たり前と思ってた」
腕をつかんでいた手を、彼女の手の甲に移動させる。リディアの冷たい手が、ぎゅっとエッジの指を包み込んだ。
「あの時、私はふたりの間に入って、きちんと話をするべきだった。きっと、王妃様もそのために私をエブラーナに送ってくれたのに、それに気付かないで…」
彼女に投げかけたもうひとつの暴言を思い出し、エッジは額に手を当てた。幻獣の襲撃に備えて気が立っていたとはいえ、言い過ぎた。彼女の指を握り返し、エッジは嘆息した。
「ひどいこと言って悪かった。オレも、やっとお前の言ってることがわかった気がするんだ。戦うっていう形は最適解じゃねえ。だから、この事態をどうすればいいのか考えたい」
リディアは少し驚いたように目を見開いた後、笑顔を浮かべてうなずいた。
「私、エッジが眠っている間に、ずっとそれを考えてたんだ」
地上では二週間ほどのことだったが、幻界ではリディアの安否が心配される程度の長い時間が過ぎていたようだった。住民たちはリディアの帰還を手放しで歓迎した。
しかし、リディアの隣に立つエッジの姿に気がつくと、露骨に嫌悪感を示す者もいた。リディアは気が気でなかったが、エッジは心ない言葉や態度を黙って受け止めていた。
リヴァイアサンは涙を流さんばかりの勢いで喜び、同行したエッジに何度も感謝の言葉を述べた。一方、アスラはふたりの訪問者の顔を見て、何かを諦めたかのように嘆息した。
「帰ってきたということは、本当に幻界で一生を過ごすつもりですか」
あのときとっさに出た自分の言葉を確認するアスラに対し、リディアは首を横に振った。
「…いいえ」
硬い表情のアスラに何から伝えるべきだろうか。隣に立つエッジの顔を見上げると、彼は真摯なまなざしを幻獣王夫妻に投げかけていた。
「今日は、あんたたちにひとつ提案しにきたんだ。幻界と人間界で不可侵条約を結びたい」
エッジの提案に、アスラは表情を変えず、リヴァイアサンは目を見開いた後、口元に笑みを浮かべた。エッジはふたりの反応を確かめた後、分厚い紙を取り出した。
「人間界のすべての国や自治区の首長はこの条約制定に賛同している。あとはあんたがこれに同意してくれればいい。これがあれば、もし人間界で幻獣に手を出すような奴がいたら、法で厳しく裁かれることになる」
逆もしかりだ。もし、幻獣が人間を手にかけた場合は、幻獣王がその者を処罰するということになっている。
リヴァイアサンが紙を手に取って顎に手を当てた。アスラが横から書類を覗き込んだ後、エッジを見据えて厳しい口調で問いかけた。
「この前のような国を持たぬ、賊による侵略はどのように防ぐのです?」
「私がやります」
リディアは勇気を振り絞って声を上げた。力が入りすぎて、思いのほか、大きい声になってしまった。
「…私が、責任を持って人間の密猟集団の活動を抑えて、幻界へ立ち入らせないようにします。また、万が一、幻獣王様、王妃様の監視をかいくぐった幻獣が人間界で何らかの危害を及ぼそうとした場合には、私が彼らを説得します」
「リディア、あなたひとりでできるのですか」
「私ひとりではないです」
リディアは隣にいるエッジの顔を見上げた。エッジはうなずいて、リディアの言葉を引き継いだ。
「エブラーナの密偵を世界各地へ配置する。何か妙な動きがあったら、すぐにオレとリディアの耳に入れるようにする」
エッジはそこで言葉を切った。そして、自信満々ににやりと目を細めた。
「あんたたちの娘だけを危ない目には遭わせないから安心してくれ」
エッジの言葉に、リヴァイアサンが顔をほころばせた。
「いい案だと思うが」
夫に促され、アスラは長い息を吐き出し、降参と言わんばかりの顔をした。
「わかりました。これでやってみましょう」
リディアは両親に抱きついた。こんな風に素直に喜びを表現するのは久方ぶりのように感じられた。
「この前、オレが斬りつけた幻獣は無事か」
エッジの問いかけに、アスラが無言でうなずいた。リディアは嬉しさでその場に倒れ込みたくなる気持ちを必死で抑えた。エッジも安堵の息をついた。安堵感へ釘を刺すかのように、アスラが言葉を継いで、居室の入口へ視線を向けた。
「…ただ、消えない傷が残りましたが」
強大な魔力と禍々しい気配を感じ、リディアは振り返った。そこにいるフードをかぶった人物は、人間の姿をしたフェンリルだとわかった。彼が黒いフードをとると、左の眉の付け根から右の頬まで、斜めに刀傷が走っていた。リディアは痛々しいその傷跡から目をそらしたい気持ちになった。
「幻獣王様。本当に、人間とくだらぬ協定を結ぶのですか」
憎悪に燃える瞳が、エッジと幻獣王夫妻に向けられていた。リヴァイアサンは穏やかな顔をしたまま、長い顎髭に触れながら答えた。
「そのつもりじゃ」
「何故そのような愚かな決断をされるのですか!元々悪行を始めた憎い人間を、何故成敗してはいけないのですか!」
食い下がるフェンリルの主張を、幻獣王は一笑に付した。
「おぬしらは、自分が抱いている感情の根源も考えず、ただ盲目的に人間を憎むことで自らの存在を確固たるものと認識しているのではないか。そうであれば、憎い人間に依存していることになる。まことにくだらない」
リヴァイアサンの静かな物言いに、フェンリルは返す言葉を失ったようだった。リディアはセシルに出会ったばかりの頃の自分を思い出した。憎むことが生きる力になっているとしたら、それはとても悲しいことだ。憎しみを乗り越えたところにある感情を彼らに伝えたい。
エッジが歩を進めて、フェンリルの前に立った。フェンリルが身構える。
「その傷、悪かったな。あのときのオレには、殺すっていう選択肢しか思い浮かばなかったんだ。とりあえず、生きてて良かった」
エッジは腰に下げていた刀を外し、一本は床に投げ捨て、もう一本は鞘ごとフェンリルに差し出した。
「オレはこれからリディアと一緒に、愚かな奴らから幻獣を守るために力を尽くすつもりだ。それでもその傷の恨みを受け止める責任があると思う。だから」
エッジの手から刀がひったくるように奪われた。身体が鉛のように重くなり、動けない。目の前で繰り広げられていることから目を背けることもできない。
「お願い、やめて!」
何とか絞り出した悲鳴と同時に鞘から放たれた白銀色の刃が光り、次の瞬間鋭い線を描いた。
エッジは避けようともせずに、その一閃を受け止めた。少し遅れて、彼の右目から頬にかけて玉のように血が滲み、みるみるうちに鮮血が溢れ出した。
呪いが解けたかのように、足が一歩踏み出した。リディアはよろよろと向き合うフェンリルとエッジの間に立った。
フェンリルは苦悶の表情でリディアを見据えた。刀を持つ手が震えている。フェンリルが放った刀が固い音を立てて床に落ちた。
流れる血に構わず、エッジは立ち尽くしたままで口の端を上げた。
「いい腕だ」
リディアは悟った。自分は最初の任務に失敗した。そして、前途は自分が想像していたよりもずっと多難なのだと。
リヴァイアサンが条約の書類に署名をした。喜び勇んで書類を携えてさっそく地上へ戻ろうとした時、アスラに呼び止められた。
「リディア。あなたには人間界での重要な任務ができました。それを全うするまで幻界へ来てはなりません」
リヴァイアサンとエッジが、同時にリディアへ視線を向けた。
アスラの言うことはもっともだった。これまで自分は、特になすべきこともなく幻界とミストを行き来して自由奔放に生活していた。これからはやらなければならないことが山ほどあるだろう。自分に重要な役割を与えてくれた人々の期待に応えるためにも、しばらくはその仕事に没頭しようと思った。
「はい。わかりました。一日も早くこの務めを果たし、人間と幻獣が穏やかに共生できる環境を作ります」
そう宣言すると、アスラはうなずいて、久々に笑顔を見せた。リディアももう一度うなずいて応じた。直後にリヴァイアサンが発した「たまには来るんじゃぞ」というささやきはその場にいた全員に聞こえる音量で、リディアとエッジは吹き出し、アスラは夫を呆れたように睨みつけた。
「忘れ物はないか?」
声に回想から現実の世界へ呼び戻される。エッジが手の埃を払いながら部屋を見回した。
リディアは部屋の壁際に置かれた植物をじっと見つめた。なんとかして持って行きたいと考えを巡らしていると、エッジが眉間に皺を寄せた。
「これ、もともとエブラーナの植物だろ。戻ったら種でも苗でも好きなだけやるから、あきらめて置いてこうぜ」
リディアはしぶしぶ首を縦に振った。大輪の花を咲かせている紫陽花の大きな緑の葉に触れると、ひんやりとしていて、内側の水分が感じられた。
エッジは荷物を持ち上げた。持っていく物はほとんどが本と自分がこれまでに書いた記録の紙だった。
植物と家具だけが残った部屋は、自分がこれまで住んでいた空間とは似ても似つかなかった。リディアはもう一度部屋全体を眺め、扉を閉めた。
部屋の外で待っていたリヴァイアサンがリディアを抱きしめた。
「がんばるんじゃぞ」
「はい。幻獣王様もお元気で」
自然と背中に回す手に力が入る。凝りもせずに「いつでも戻ってくるのじゃよ」と言われ、リディアはくすりと笑った。身体を離すとリヴァイアサンはエッジを手招きし、耳元で何やら囁いた。エッジはそれを聞いて勢いよく吹き出し、続いて頬を掻いた。何を話しているのか、皆目見当がつかない。
「リディア」
凛とした声が自分の名を呼んだ。リディアはアスラの前に立ち、深く頭を下げた。
「王妃様、本当にありがとうございました」
頭を上げると穏やかな微笑みをたたえたアスラがそこにいた。リディアは唇を噛んで涙を押し止めた。
「こちらこそお礼を言わねばなりません。これからあなたがなすことは、私の長年の悲願でもあるのです。…また会える日まで、息災で」
こらえきれず、涙が一滴落ちた。アスラの腕が自分を優しく包む。
「…はい。私が自分の務めを果たし、またお会いできる日まで」
アスラから離れると、エッジがアスラに手を差し出した。無言で握手を交わし、両者は決意に満ちた強い視線のまま、口元をほころばせた。
久しぶりに帰ったミストは相変わらずのどかだった。建物の修復はほぼ終わりつつあり、民家の裏の農地には、背の伸びた麦が穂を揺らしていた。
母の墓の前にそなえられた白い百合の花が風で花びらを揺らした。芳醇な香りが辺りに漂った。
「じゃあまたな」
墓参を終え、晴れやかな顔で一時の別れを宣言するエッジに、リディアの胸が痛んだ。
エッジの顔の半分は黒い布に覆われていた。彼は、傷がきれいに消えてしまうかもしれない、と言い張ってアスラによる回復魔法を頑に受け入れなかったのだった。
痛みや、隠されている傷跡を想像すると、いたたまれない気持ちになる。しかし、きっと自分は、彼がこの傷に込めた意図をすべて理解できていないだろうとも思っていた。
リディアは黒い布に隠された頬にそっと手を添え、決意を口にした。
「…エッジのこの傷を最後にするよ。幻獣が人間につけた、最後の傷」
「逆もそうしなきゃな」
明るい声で応じ、エッジは添えられた手に大きな手を重ねた。軽く握られた後、絡んだ指が解かれ、彼は踵を返した。
後ろ姿を見送る。数歩進んだところで「ああ、そうだ」とエッジが思い出したようにつぶやいて足を止め、自分を振り返った。
「おかえり、リディア」
温かい言葉に、自然と顔がほころんだ。
「ただいま!」
エッジが満足げに白い歯を見せ、小さく手を振った。リディアも胸の高さで手を振り返す。
彼が再度背を向けたところで、リディアは青空を見上げた。巣立ったばかりであろう、小さなつばめが飛んでいた。滑らかな軌跡は、青いキャンバスに雄大な絵を描いているようだった。
end
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あとがきはこちら。(リンク)
幻界にエブラーナの植物?という話はこちら。
『紫陽花』
この続きになるのでしょうかという話。
『天国と地獄』
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