こちらも昔書いたものです。ちょっと恥ずかしいですが…
『青空の三日月』、『空は今でも青い』の続きです。
バロンの結婚式の後、ミストの村へ向かうリディアと若様の話です。
『曇り空の太陽』
空は淡く灰色がかった雲に覆われていて、太陽に近い部分だけが少しだけ明るく見える。
色は濃くなくとも、昼間の日差しを遮る程度の厚みはあるらしい。
「ミストに着く前には降らないと思うけどな」
空を見上げていた自分の心中を察したかのような言葉に、隣で歩くエッジを見上げる。
考えていたことを見透かされて、驚きの後に、妙な安心感が生まれた。
バロンからミストに続く街道は、静かでのどかな道のりだった。
様々な交通手段が発達した今、昔ながらの街道を歩く人は少なく、すれ違ったのは人よりも動物の方が多いのではないかといった状態だ。
心地よい草原を歩きながら、リディアは頭の中を空っぽにするよう、意識して努めていた。
曇天の下でも、彼の耳を彩る赤い耳飾りの色が鮮やかに映る。
その色が、遠くない過去、一日のほとんどの時間を彼を始めとする何人かの人々と過ごした時期の記憶を蘇らせる。
その共同生活にも似た旅の光景を思い出し、懐かしさに似た感情が生まれ、その感情がリディアに微笑みをもたらした。
微笑みが視界の端に入ったのか、エッジが自分に向けて視線を落とす。
「前、エッジは歩くのが早かったよね」
「今でもはええぞ」
彼の自尊心を軽く傷つけてしまったらしい。
むっとした表情を見て、リディアは更に楽しい気分になった。
「一緒に旅を始めたばっかりの頃、エッジはいつも先頭を歩いてたよね」
リディアが話したいことの見当がついたらしい。
エッジの渋面が少し緩む。
一行の旅にエッジが加わったばかりの頃のことである。
エッジの歩みは本当に早くて、いつも自分は彼の背中が見えなくならないように、半分駆け足で歩いていた。
最後尾を歩く自分を、セシルとローザはいつも気にかけてくれていて、リディアが息を切らして疲れた表情をしていると、先頭のエッジに少し止まるように声をかける。
セシルとローザの優しさに申し訳なさを覚え、リディアはエッジに抗議した。
「もう少しゆっくり歩いてよ」
すると彼は、リディアの文句を一笑に付したのである。
「オレが先頭を歩いてるおかげで楽してんだろ」
子供が何かを自慢するような、得意げな表情である。
リディアは返す言葉がなくなって、頬を膨らませて黙り込んだ。
確かに彼が先頭を歩くことは偵察も兼ねていたし、多少のモンスターであれば、彼とその後に続くカインが倒してしまうことも多かった。
彼の言う通りだ。文句を言ってからも、しばらくは最後尾を小走りで歩く日が続いた。
しかし、ある日、最後尾のリディアを歩く背後から、モンスターの襲撃があった。
いつものように、エッジの背中は見えなくなるぎりぎりのところにある。
息を切らしていたせいで、魔法の詠唱が少し遅くなる。しかも、魔法の詠唱中はほぼ無防備である。
モンスターの鋭い爪が肩をかすめ、自分の鮮血が頬にかかる。
セシルの剣とローザの放った矢が、寸でのところでモンスターの急所を打ち、追撃は阻まれた。
傷は深くはなかったが、血を流したせいか気分が悪く、リディアはその場に倒れこんでしまった。
先頭からエッジが駆け戻ってきて、心配そうな目で自分の顔を覗き込んでいる。
夕暮れだったこともあり、その日はその場で野営することになった。
翌朝、出発した一行の隊列に少し変化があった。
エッジがリディアの横に並んで歩き始めたのだ。
「先頭行かないの?」
不思議に思ってリディアが問いかけると、エッジは前を向いたままで答えた。
「戦のときはしんがりも大事だからな」
「シンガリ?」
聞いたことのない単語に首を傾げると、やはり前を向いたままでエッジが笑った。
見上げる彼の耳には赤い耳飾りが光っている。
いつも彼の背中ばかり見ていたリディアは、その時初めてエッジが耳に装飾品をしていることに気づいたのであった。
自分の隣を歩いているエッジの横顔はあの頃とほとんど変わらない。
そのことが嬉しくて、自分を笑顔にさせたのかもしれない。
耳飾りの宝石の赤が綺麗だ。
「その耳飾り、お気に入りなの?」
以前から抱いていた疑問を口にすると、エッジの顔がもう一度しかめられた。
その様子が怪しくて、リディアは思わず大胆な仮説を展開した。
「あ、さては、女の子にもらったんでしょ!」
「ちげーよ!」
否定する彼を尻目に、リディアは仮説を続けてみる。
「エッジがすっごく好きだったのに、別れちゃった女の子とか!」
「ちげーって言ってるだろ!」
「しかも、別れた理由が王子様だから!」
「アホか!このガキ!!」
むきになっている姿を見ると、自分の仮定は、あながちはずれでもないかもしれない。
街道に響く大きな声を上げて笑っていると、少し強い風が吹いた。
強い風に、白や桃色の小さな花びらが乗せられてくる。
その花びらを捕らえようと、風向きと逆に腕を振って手を握るが、開いた手の中には何もない。
エッジが吹き出して、馬鹿にしたような視線を向けてくる。
「ほんっと、とろいよな」
「とろくないもん!」
お手本を見せてやると言わんばかりの彼の腕が、白や桃色の花びらを追いかけるが、手のひらは空を切った。
形勢逆転だ。リディアが笑うと、エッジは苦々しい顔をして、更に腕を振り回す。
花びらが多く舞っている場所に走って行き、その周辺で腕を振り回して獲物を狙う。
やがて、ふたりの笑い声に、ノイズのようなざーっという音が重なり始めた。
音の正体を探るために、ふたりは一時休戦し、音のする方へ歩き始めた。
「わあ!きれい!」
リディアは感嘆の声を上げて、水辺へ駆け寄った。
清らかな水が崖の上から落ちてくる。浮遊してきた細かな水の粒子が顔に当たって、潤いと新鮮な香りを運んだ。落ちる水の中に小さな虹が見える。
水辺からは小川が流れ出ており、透明さに惹かれて触ってみるとひんやりしていた。
隣に立つエッジを見上げると、彼は滝を見ながら少し真剣な表情をしていた。
自分の視線に気づいて、向き直るエッジのいつもと変わらない顔に、リディアは狐につままれたような気持ちになったが、すぐに安堵の微笑みを浮かべた。
この滝まで来れば、もうすぐミストの村だ。
そう思った瞬間、心臓を掴まれたような苦しさを覚えたが、リディアはまるで気づかなかったのように、小さな呼吸とともに微笑みを顔面に張りつけようと努めた。
しかし、胸の痛みはミストの村に近づけば近づくほど強くなった。
ミストの村の門を目前にした時、リディアはその場に呆然と立ち尽くした。足が動かないのだ。
胸の痛みは、リディアの身体を突き破って表へ出ようとしている。小さな違和感はいまや彼女の中で暴れ始め、全身を支配しようとしていた。
燃え盛る炎に全てが包まれる。
美しかった村が、突如逃げ惑う人々の群れで生き地獄と化す。
目の前に倒れて、動かない母の白い顔に、赤い炎の色が映る。
炎の熱に焼かれる恐怖も忘れ、幼い自分はその場で立ち尽くし、泣き声は阿鼻叫喚の光景に飲み込まれていく・・・・
悪夢が次から次へと思い出され、頭がいっぱいになる。
自分の中で暴れているこの痛みは、あの時村を覆った炎の塊なのだろうか。それとも、人々の怒りなのだろうか。
立っていることすらつらい。この場に身を投げ出してしまいたい。
そのとき、大きな手が肩に回されて、リディアの身体が重力に屈すること阻止した。
「大丈夫か?」
リディアはエッジの洋服の裾を引っ張って、なんとか身体を支えながら、数回深く呼吸をした。
白檀のような神秘的な香りが、胸の痛みを少し抑えて、同時に自分の心の中も沈めてくれる。
少しだけ痛みが和らいで、エッジの顔を見上げると、色々な感情が混ざった視線が自分の視線とぶつかった。
空色の瞳から不安の色を感じ取り、リディアは頷いた。
「大丈夫。ごめんね」
彼の服を離すと、肩に置かれていた手も離される。
途端に胸へ痛みが広がるが、痛みが意識を支配しないように、無理矢理笑顔を繕った。
つられたように、エッジもどこか苦しそうな笑顔を見せた。
「無理しなくていいんだからな」
「うん。もう大丈夫だよ」
いつになく優しい彼の言葉に微笑み返すと、大きな手が自分の手を包み込んだ。
その手から歩を踏み出す勇気を受け取り、リディアは意を決してミストの村の門をくぐった。
ミストの村を取り囲む森の緑は相変わらず深い。
村のいたるところにある花壇はいつも通り花を咲かせているし、広場の芝生も青々としている。
大火で損傷を受けたとはとても思えないその光景に、リディアは肩透かしをされたような感覚を覚えた。
自分の中の記憶があまりにも凄惨な村の光景になってしまっているからそう感じたのであろうか。
蝶が舞い、小鳥が歌うのどかな景色は、意外にもリディアの幼い頃の思い出そのままの光景である。
しかし、村は、静かだった。
自分が住んでいた頃は、そこらじゅうで子供が駆け回っていたし、魔法の議論を交わす大人や、広場で本を読む老人の姿が見られた。
小さくのどかな村ではあったが、いつでも楽しそうな声が響き、人の活気に溢れていたのだ。
それが今では、外を歩く人もまばらで、たまに会う人も皆申し合わせたかのように、一様に口をつぐんで俯いて歩いている。
その様子を見て、リディアはすっかりすれ違った知人に声をかける勇気をそがれてしまった。
エッジは何も言わずに手を握ってくれている。
焼けた建材が、村の外れに寄せられていた。
大した量ではなかったが、その黒さがそのまま自分の心の中にどす黒い染みとなって広がる。
恐らく、村に住む全員がこの建材を始めとする炎の名残を忌み嫌っているはずだ。
忌み嫌うその対象を処分するほどの労力すら残っていないのだろうか。それとも、気力を失ってしまったのであろうか。
黒いがれきの山の近くに、十字架がいくつも立てられていた。
近づくと、地面に木や石で出来た板があり、名前が彫られている。全員、知った名前だ。墓標のの前で手を合わせるたびに、胸の痛みが強くなる。
少し離れた場所に、一際簡素な十字架が立っていた。
十字架と言うよりは、木の棒を縦と横に重ね、紐で結んだだけのものと言った方が正しいかもしれない。
足元に置かれた薄い板に書かれた文字を読んで、リディアはエッジの手を離して、その場に崩れ落ちた。
「お母さん・・・・・・・・」
自分の前で動かない母の姿が、母に関する最後の記憶である。
母は実は死んでおらず、ミストに戻れば明るい笑顔で迎えてくれる。
そんな期待をどこかで抱き続けていた自分に初めて気がつく。
母の名が記された墓を見て、初めて母の死を現実のものとして受け入れなければいけなくなったのだ。
しばらく流していなかった涙が溢れ出す。
母の骸を前にしたときと同じだ。涙を流しながら、そんな風に考えているもうひとりの自分がいた。
炎の中、自分の前で動かなくなってしまった母。
身体を揺すっても、声をかけても母は返事をしてくれない。
優しそうな表情は、いつもとちっとも変わらないのに!
もう二度と話せないの?もう二度と魔法を教えてもらえないの?
胸の中に浮かぶ感情も蘇り、リディアは苦しさを流してしまうために泣き続けた。
涙が枯れかけて、乱れる呼吸を整えようと息を少し吸い込んだときに、甘くて新鮮な香りを感じた。
濡れた瞳を見開いて、その香りの先を探す。
どこから持ってきたのか、エッジが白い花束を持って自分の後ろに立っている。
問いかける前に彼は自分の隣に屈んで、母の名前が刻まれた板の上に、その花を置いた。
無残な焼け跡が残る簡易な墓場に似使わないくらい立派な花だ。
曇天の下でも、白い花は少ない光を目いっぱい反射して輝いている。
「リディアを生んでくれてありがとう」
墓の前で手を合わせて、彼は見たこともないリディアの母に語りかけるかのような調子でそう言った。
リディアがあっけにとられていると、エッジは優しい笑顔でリディアの頭に手を置いた。
大きな手が頭の頂点で何度かぐるぐると回った。
「お前のおふくろさんに、お礼を言おうぜ」
彼は再び墓に身体を向け、手を合わせて瞳を閉じる。
もう一度涙が溢れそうになるが、涙は流れなかった。
耳に光る赤い宝石の色がそれを阻んだのかもしれない。
彼も自分と同じような経験をしているのだ。
・・・・もしかしたら、自分よりももっとつらい経験を。
きっと彼も苦しみ抜いて、そこから立ち直ったのだろう。
それを知っているから、彼が今自分の前でした行動は、全て自分を救ってくれるような気がした。
彼が示してくれたのは、きっとこの悲しみを乗り越える近道なのだ。
エッジに倣い、リディアは手を合わせて瞳を閉じた。
お母さん、ありがとう。
あたしを生んでくれて。
こんなに素敵な人たちに出会わせてくれて。
最後の感謝の言葉を思い浮かべたところで、胸の痛みが温かい感謝の念に取り込まれ、リディアは自然と笑顔になった。
涙はすっかり乾いていた。瞳を開けると、それに応じてエッジが立ち上がった。
「この花が枯れる前に、また会いにこなきゃな」
頷いて彼を見上げる。
細められた紫がかった空色の瞳が、本当の空のように、全てを包み込む存在に見えた。
その瞳に招かれるかのように、リディアは立ち上がって、エッジの胸に顔を埋めた。
「少しこうさせていて」
落ち着くから。付け足すと、彼の了承する低い声が鼓膜と骨を伝って聞こえた。
次に帰ってくるときは、ひとりでも大丈夫かもしれない。
白檀の香りと、ゆっくりとした鼓動は、自分の心に必要な勇気を供給してくれているようだった。
墓参りを終えミストの村を後にして、しばらく草原を歩いた頃、鉄の歯車が周期的に動く低い音と、風を切る高い音が混ざって聞こえた。
周囲の風が強くなる。空を見上げると、曇り空に、船底が赤く塗られた飛空挺が浮かんでいた。ファルコンだ。
竜巻が起きて、ふたりの目の前に巨大な飛空挺が着陸する。
「迎えにきたぞい!」
飛空挺から元気に降りてきたのは、シドである。小さい身体を揺するようにして、ファルコンを飛び降りて駆け寄ってくる。
エッジは近づいてきたシドに、苦笑を浮かべてなにやら悪態をついた。
「・・・・このクソジジイ、余計なマネを・・・・」
「ああ!?なんか言ったか?聞こえんなあ!」
シドとエッジのやりとりはいつも通りで、リディアはおかしくなってしまう。
シドは幻界までリディアを送ってくれると言う。
エブラーナに寄るようにリディアが頼むと、エッジがそれを断った。
バロンに部下を大勢置いてきている上に、この後はダムシアンへ向かい、ギルバートと外交交渉を行うらしい。
当然エッジが同行すると思っていたリディアは、言い知れぬ寂しさを覚えて俯く。
「オレ様がいなくて寂しいのか?」
「うん」
素直に答えると、意外だったのか、エッジは目を少し見開いた。
寂しさを少しでもまぎらわすために、リディアは頭を下げた。
「一緒に来てくれてありがとう」
すると、彼の大きい手が慣れたように自分の頭をぐるぐるとかき混ぜた。
癖のあるリディアの髪の毛はすぐに絡まってぼさぼさになってしまう。
抗議の視線を向けると、エッジは整った白い歯をこぼれさせた。
「あの花が枯れる前に、また会おうぜ」
次の約束は、寂しさを消し去ってくれる。
その約束と、彼の眩しい笑顔に後押しされるように、リディアはうなずいて、飛空挺に乗り込んだ。
すぐにシドが先頭に立って出発の準備を始める。
ふわりと飛空挺が地面から浮いた瞬間、先程消えたはずの寂しさが胸の中に湧き上がってきた。
・・・・やっぱりエッジと離れたくない。
その思いと裏腹に、飛空挺はどんどん高度を上げていく。
まばらな雲の隙間から赤っぽい光が差し込んでいる。
寂しさと焦燥感の中、リディアの脳裏に、以前の別れの情景が思い浮かんだ。
月から帰ってきて、リディアが幻界に戻ったときのことである。
そのときの空気の振動や、握られた手の感触まで、まざまざと思い出される。
リディアは飛空挺の縁に立って、草原を見下ろし、彼をめがけて叫んだ。
「エッジ!いつか言ってくれた言葉って、本当!?」
エッジは、リディアの言っている対象が何のことだかわからないのか眉根を寄せた。
言葉が足りなかっただろうか。
後悔の念を抱くが、こうしている間にも飛空挺の高度は上がっていき、彼の姿が小さくなる。
絶望的な気分でうつむいたときに、よく通る明るい声が雑音を押しのけて、リディアの耳に届いた。
「忍者は嘘つかねえよ!」
いつもの自信に溢れるエッジの笑顔が見えた。
彼の返事にリディアは安堵を覚え、言葉を続けた。
「あたし、信じてるから!」
自分の声は彼に届いただろうか。
わからない。
でも、彼が満面の笑顔のままで大きく手を振ってくれているのが見えた。
リディアはその姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
いつか言ってくれた言葉。
真偽を確認したかったのは、月から帰還したあと、幻界での別れ際に彼が叫んだ言葉だった。
絶対迎えに来るから待ってろ!
・・・・絶対迎えに来てね。
薄い雲の下で背中を向けているであろう彼に心の中でそう伝え、リディアは落ちていく赤い日を眺めた。
end
--------
関連作品はこちら。
『青空の三日月』
『空は今でも青い』
SS一覧へ戻る場合はこちら。
『青空の三日月』、『空は今でも青い』の続きです。
バロンの結婚式の後、ミストの村へ向かうリディアと若様の話です。
『曇り空の太陽』
空は淡く灰色がかった雲に覆われていて、太陽に近い部分だけが少しだけ明るく見える。
色は濃くなくとも、昼間の日差しを遮る程度の厚みはあるらしい。
「ミストに着く前には降らないと思うけどな」
空を見上げていた自分の心中を察したかのような言葉に、隣で歩くエッジを見上げる。
考えていたことを見透かされて、驚きの後に、妙な安心感が生まれた。
バロンからミストに続く街道は、静かでのどかな道のりだった。
様々な交通手段が発達した今、昔ながらの街道を歩く人は少なく、すれ違ったのは人よりも動物の方が多いのではないかといった状態だ。
心地よい草原を歩きながら、リディアは頭の中を空っぽにするよう、意識して努めていた。
曇天の下でも、彼の耳を彩る赤い耳飾りの色が鮮やかに映る。
その色が、遠くない過去、一日のほとんどの時間を彼を始めとする何人かの人々と過ごした時期の記憶を蘇らせる。
その共同生活にも似た旅の光景を思い出し、懐かしさに似た感情が生まれ、その感情がリディアに微笑みをもたらした。
微笑みが視界の端に入ったのか、エッジが自分に向けて視線を落とす。
「前、エッジは歩くのが早かったよね」
「今でもはええぞ」
彼の自尊心を軽く傷つけてしまったらしい。
むっとした表情を見て、リディアは更に楽しい気分になった。
「一緒に旅を始めたばっかりの頃、エッジはいつも先頭を歩いてたよね」
リディアが話したいことの見当がついたらしい。
エッジの渋面が少し緩む。
一行の旅にエッジが加わったばかりの頃のことである。
エッジの歩みは本当に早くて、いつも自分は彼の背中が見えなくならないように、半分駆け足で歩いていた。
最後尾を歩く自分を、セシルとローザはいつも気にかけてくれていて、リディアが息を切らして疲れた表情をしていると、先頭のエッジに少し止まるように声をかける。
セシルとローザの優しさに申し訳なさを覚え、リディアはエッジに抗議した。
「もう少しゆっくり歩いてよ」
すると彼は、リディアの文句を一笑に付したのである。
「オレが先頭を歩いてるおかげで楽してんだろ」
子供が何かを自慢するような、得意げな表情である。
リディアは返す言葉がなくなって、頬を膨らませて黙り込んだ。
確かに彼が先頭を歩くことは偵察も兼ねていたし、多少のモンスターであれば、彼とその後に続くカインが倒してしまうことも多かった。
彼の言う通りだ。文句を言ってからも、しばらくは最後尾を小走りで歩く日が続いた。
しかし、ある日、最後尾のリディアを歩く背後から、モンスターの襲撃があった。
いつものように、エッジの背中は見えなくなるぎりぎりのところにある。
息を切らしていたせいで、魔法の詠唱が少し遅くなる。しかも、魔法の詠唱中はほぼ無防備である。
モンスターの鋭い爪が肩をかすめ、自分の鮮血が頬にかかる。
セシルの剣とローザの放った矢が、寸でのところでモンスターの急所を打ち、追撃は阻まれた。
傷は深くはなかったが、血を流したせいか気分が悪く、リディアはその場に倒れこんでしまった。
先頭からエッジが駆け戻ってきて、心配そうな目で自分の顔を覗き込んでいる。
夕暮れだったこともあり、その日はその場で野営することになった。
翌朝、出発した一行の隊列に少し変化があった。
エッジがリディアの横に並んで歩き始めたのだ。
「先頭行かないの?」
不思議に思ってリディアが問いかけると、エッジは前を向いたままで答えた。
「戦のときはしんがりも大事だからな」
「シンガリ?」
聞いたことのない単語に首を傾げると、やはり前を向いたままでエッジが笑った。
見上げる彼の耳には赤い耳飾りが光っている。
いつも彼の背中ばかり見ていたリディアは、その時初めてエッジが耳に装飾品をしていることに気づいたのであった。
自分の隣を歩いているエッジの横顔はあの頃とほとんど変わらない。
そのことが嬉しくて、自分を笑顔にさせたのかもしれない。
耳飾りの宝石の赤が綺麗だ。
「その耳飾り、お気に入りなの?」
以前から抱いていた疑問を口にすると、エッジの顔がもう一度しかめられた。
その様子が怪しくて、リディアは思わず大胆な仮説を展開した。
「あ、さては、女の子にもらったんでしょ!」
「ちげーよ!」
否定する彼を尻目に、リディアは仮説を続けてみる。
「エッジがすっごく好きだったのに、別れちゃった女の子とか!」
「ちげーって言ってるだろ!」
「しかも、別れた理由が王子様だから!」
「アホか!このガキ!!」
むきになっている姿を見ると、自分の仮定は、あながちはずれでもないかもしれない。
街道に響く大きな声を上げて笑っていると、少し強い風が吹いた。
強い風に、白や桃色の小さな花びらが乗せられてくる。
その花びらを捕らえようと、風向きと逆に腕を振って手を握るが、開いた手の中には何もない。
エッジが吹き出して、馬鹿にしたような視線を向けてくる。
「ほんっと、とろいよな」
「とろくないもん!」
お手本を見せてやると言わんばかりの彼の腕が、白や桃色の花びらを追いかけるが、手のひらは空を切った。
形勢逆転だ。リディアが笑うと、エッジは苦々しい顔をして、更に腕を振り回す。
花びらが多く舞っている場所に走って行き、その周辺で腕を振り回して獲物を狙う。
やがて、ふたりの笑い声に、ノイズのようなざーっという音が重なり始めた。
音の正体を探るために、ふたりは一時休戦し、音のする方へ歩き始めた。
「わあ!きれい!」
リディアは感嘆の声を上げて、水辺へ駆け寄った。
清らかな水が崖の上から落ちてくる。浮遊してきた細かな水の粒子が顔に当たって、潤いと新鮮な香りを運んだ。落ちる水の中に小さな虹が見える。
水辺からは小川が流れ出ており、透明さに惹かれて触ってみるとひんやりしていた。
隣に立つエッジを見上げると、彼は滝を見ながら少し真剣な表情をしていた。
自分の視線に気づいて、向き直るエッジのいつもと変わらない顔に、リディアは狐につままれたような気持ちになったが、すぐに安堵の微笑みを浮かべた。
この滝まで来れば、もうすぐミストの村だ。
そう思った瞬間、心臓を掴まれたような苦しさを覚えたが、リディアはまるで気づかなかったのように、小さな呼吸とともに微笑みを顔面に張りつけようと努めた。
しかし、胸の痛みはミストの村に近づけば近づくほど強くなった。
ミストの村の門を目前にした時、リディアはその場に呆然と立ち尽くした。足が動かないのだ。
胸の痛みは、リディアの身体を突き破って表へ出ようとしている。小さな違和感はいまや彼女の中で暴れ始め、全身を支配しようとしていた。
燃え盛る炎に全てが包まれる。
美しかった村が、突如逃げ惑う人々の群れで生き地獄と化す。
目の前に倒れて、動かない母の白い顔に、赤い炎の色が映る。
炎の熱に焼かれる恐怖も忘れ、幼い自分はその場で立ち尽くし、泣き声は阿鼻叫喚の光景に飲み込まれていく・・・・
悪夢が次から次へと思い出され、頭がいっぱいになる。
自分の中で暴れているこの痛みは、あの時村を覆った炎の塊なのだろうか。それとも、人々の怒りなのだろうか。
立っていることすらつらい。この場に身を投げ出してしまいたい。
そのとき、大きな手が肩に回されて、リディアの身体が重力に屈すること阻止した。
「大丈夫か?」
リディアはエッジの洋服の裾を引っ張って、なんとか身体を支えながら、数回深く呼吸をした。
白檀のような神秘的な香りが、胸の痛みを少し抑えて、同時に自分の心の中も沈めてくれる。
少しだけ痛みが和らいで、エッジの顔を見上げると、色々な感情が混ざった視線が自分の視線とぶつかった。
空色の瞳から不安の色を感じ取り、リディアは頷いた。
「大丈夫。ごめんね」
彼の服を離すと、肩に置かれていた手も離される。
途端に胸へ痛みが広がるが、痛みが意識を支配しないように、無理矢理笑顔を繕った。
つられたように、エッジもどこか苦しそうな笑顔を見せた。
「無理しなくていいんだからな」
「うん。もう大丈夫だよ」
いつになく優しい彼の言葉に微笑み返すと、大きな手が自分の手を包み込んだ。
その手から歩を踏み出す勇気を受け取り、リディアは意を決してミストの村の門をくぐった。
ミストの村を取り囲む森の緑は相変わらず深い。
村のいたるところにある花壇はいつも通り花を咲かせているし、広場の芝生も青々としている。
大火で損傷を受けたとはとても思えないその光景に、リディアは肩透かしをされたような感覚を覚えた。
自分の中の記憶があまりにも凄惨な村の光景になってしまっているからそう感じたのであろうか。
蝶が舞い、小鳥が歌うのどかな景色は、意外にもリディアの幼い頃の思い出そのままの光景である。
しかし、村は、静かだった。
自分が住んでいた頃は、そこらじゅうで子供が駆け回っていたし、魔法の議論を交わす大人や、広場で本を読む老人の姿が見られた。
小さくのどかな村ではあったが、いつでも楽しそうな声が響き、人の活気に溢れていたのだ。
それが今では、外を歩く人もまばらで、たまに会う人も皆申し合わせたかのように、一様に口をつぐんで俯いて歩いている。
その様子を見て、リディアはすっかりすれ違った知人に声をかける勇気をそがれてしまった。
エッジは何も言わずに手を握ってくれている。
焼けた建材が、村の外れに寄せられていた。
大した量ではなかったが、その黒さがそのまま自分の心の中にどす黒い染みとなって広がる。
恐らく、村に住む全員がこの建材を始めとする炎の名残を忌み嫌っているはずだ。
忌み嫌うその対象を処分するほどの労力すら残っていないのだろうか。それとも、気力を失ってしまったのであろうか。
黒いがれきの山の近くに、十字架がいくつも立てられていた。
近づくと、地面に木や石で出来た板があり、名前が彫られている。全員、知った名前だ。墓標のの前で手を合わせるたびに、胸の痛みが強くなる。
少し離れた場所に、一際簡素な十字架が立っていた。
十字架と言うよりは、木の棒を縦と横に重ね、紐で結んだだけのものと言った方が正しいかもしれない。
足元に置かれた薄い板に書かれた文字を読んで、リディアはエッジの手を離して、その場に崩れ落ちた。
「お母さん・・・・・・・・」
自分の前で動かない母の姿が、母に関する最後の記憶である。
母は実は死んでおらず、ミストに戻れば明るい笑顔で迎えてくれる。
そんな期待をどこかで抱き続けていた自分に初めて気がつく。
母の名が記された墓を見て、初めて母の死を現実のものとして受け入れなければいけなくなったのだ。
しばらく流していなかった涙が溢れ出す。
母の骸を前にしたときと同じだ。涙を流しながら、そんな風に考えているもうひとりの自分がいた。
炎の中、自分の前で動かなくなってしまった母。
身体を揺すっても、声をかけても母は返事をしてくれない。
優しそうな表情は、いつもとちっとも変わらないのに!
もう二度と話せないの?もう二度と魔法を教えてもらえないの?
胸の中に浮かぶ感情も蘇り、リディアは苦しさを流してしまうために泣き続けた。
涙が枯れかけて、乱れる呼吸を整えようと息を少し吸い込んだときに、甘くて新鮮な香りを感じた。
濡れた瞳を見開いて、その香りの先を探す。
どこから持ってきたのか、エッジが白い花束を持って自分の後ろに立っている。
問いかける前に彼は自分の隣に屈んで、母の名前が刻まれた板の上に、その花を置いた。
無残な焼け跡が残る簡易な墓場に似使わないくらい立派な花だ。
曇天の下でも、白い花は少ない光を目いっぱい反射して輝いている。
「リディアを生んでくれてありがとう」
墓の前で手を合わせて、彼は見たこともないリディアの母に語りかけるかのような調子でそう言った。
リディアがあっけにとられていると、エッジは優しい笑顔でリディアの頭に手を置いた。
大きな手が頭の頂点で何度かぐるぐると回った。
「お前のおふくろさんに、お礼を言おうぜ」
彼は再び墓に身体を向け、手を合わせて瞳を閉じる。
もう一度涙が溢れそうになるが、涙は流れなかった。
耳に光る赤い宝石の色がそれを阻んだのかもしれない。
彼も自分と同じような経験をしているのだ。
・・・・もしかしたら、自分よりももっとつらい経験を。
きっと彼も苦しみ抜いて、そこから立ち直ったのだろう。
それを知っているから、彼が今自分の前でした行動は、全て自分を救ってくれるような気がした。
彼が示してくれたのは、きっとこの悲しみを乗り越える近道なのだ。
エッジに倣い、リディアは手を合わせて瞳を閉じた。
お母さん、ありがとう。
あたしを生んでくれて。
こんなに素敵な人たちに出会わせてくれて。
最後の感謝の言葉を思い浮かべたところで、胸の痛みが温かい感謝の念に取り込まれ、リディアは自然と笑顔になった。
涙はすっかり乾いていた。瞳を開けると、それに応じてエッジが立ち上がった。
「この花が枯れる前に、また会いにこなきゃな」
頷いて彼を見上げる。
細められた紫がかった空色の瞳が、本当の空のように、全てを包み込む存在に見えた。
その瞳に招かれるかのように、リディアは立ち上がって、エッジの胸に顔を埋めた。
「少しこうさせていて」
落ち着くから。付け足すと、彼の了承する低い声が鼓膜と骨を伝って聞こえた。
次に帰ってくるときは、ひとりでも大丈夫かもしれない。
白檀の香りと、ゆっくりとした鼓動は、自分の心に必要な勇気を供給してくれているようだった。
墓参りを終えミストの村を後にして、しばらく草原を歩いた頃、鉄の歯車が周期的に動く低い音と、風を切る高い音が混ざって聞こえた。
周囲の風が強くなる。空を見上げると、曇り空に、船底が赤く塗られた飛空挺が浮かんでいた。ファルコンだ。
竜巻が起きて、ふたりの目の前に巨大な飛空挺が着陸する。
「迎えにきたぞい!」
飛空挺から元気に降りてきたのは、シドである。小さい身体を揺するようにして、ファルコンを飛び降りて駆け寄ってくる。
エッジは近づいてきたシドに、苦笑を浮かべてなにやら悪態をついた。
「・・・・このクソジジイ、余計なマネを・・・・」
「ああ!?なんか言ったか?聞こえんなあ!」
シドとエッジのやりとりはいつも通りで、リディアはおかしくなってしまう。
シドは幻界までリディアを送ってくれると言う。
エブラーナに寄るようにリディアが頼むと、エッジがそれを断った。
バロンに部下を大勢置いてきている上に、この後はダムシアンへ向かい、ギルバートと外交交渉を行うらしい。
当然エッジが同行すると思っていたリディアは、言い知れぬ寂しさを覚えて俯く。
「オレ様がいなくて寂しいのか?」
「うん」
素直に答えると、意外だったのか、エッジは目を少し見開いた。
寂しさを少しでもまぎらわすために、リディアは頭を下げた。
「一緒に来てくれてありがとう」
すると、彼の大きい手が慣れたように自分の頭をぐるぐるとかき混ぜた。
癖のあるリディアの髪の毛はすぐに絡まってぼさぼさになってしまう。
抗議の視線を向けると、エッジは整った白い歯をこぼれさせた。
「あの花が枯れる前に、また会おうぜ」
次の約束は、寂しさを消し去ってくれる。
その約束と、彼の眩しい笑顔に後押しされるように、リディアはうなずいて、飛空挺に乗り込んだ。
すぐにシドが先頭に立って出発の準備を始める。
ふわりと飛空挺が地面から浮いた瞬間、先程消えたはずの寂しさが胸の中に湧き上がってきた。
・・・・やっぱりエッジと離れたくない。
その思いと裏腹に、飛空挺はどんどん高度を上げていく。
まばらな雲の隙間から赤っぽい光が差し込んでいる。
寂しさと焦燥感の中、リディアの脳裏に、以前の別れの情景が思い浮かんだ。
月から帰ってきて、リディアが幻界に戻ったときのことである。
そのときの空気の振動や、握られた手の感触まで、まざまざと思い出される。
リディアは飛空挺の縁に立って、草原を見下ろし、彼をめがけて叫んだ。
「エッジ!いつか言ってくれた言葉って、本当!?」
エッジは、リディアの言っている対象が何のことだかわからないのか眉根を寄せた。
言葉が足りなかっただろうか。
後悔の念を抱くが、こうしている間にも飛空挺の高度は上がっていき、彼の姿が小さくなる。
絶望的な気分でうつむいたときに、よく通る明るい声が雑音を押しのけて、リディアの耳に届いた。
「忍者は嘘つかねえよ!」
いつもの自信に溢れるエッジの笑顔が見えた。
彼の返事にリディアは安堵を覚え、言葉を続けた。
「あたし、信じてるから!」
自分の声は彼に届いただろうか。
わからない。
でも、彼が満面の笑顔のままで大きく手を振ってくれているのが見えた。
リディアはその姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
いつか言ってくれた言葉。
真偽を確認したかったのは、月から帰還したあと、幻界での別れ際に彼が叫んだ言葉だった。
絶対迎えに来るから待ってろ!
・・・・絶対迎えに来てね。
薄い雲の下で背中を向けているであろう彼に心の中でそう伝え、リディアは落ちていく赤い日を眺めた。
end
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