昔書いたSSのタイトルを変えてみました。
FF4のエンディング後、戴冠式あたりの話です。
長いので、休み休みどうぞーー。
この話の前の話、『青空の三日月』もよろしければご一緒にどうぞ。
『空は今でも青い』
久し振りに仰ぎ見る空と、眼下に広がる海の深い青が目に沁みる。
その果てない青い海に反射する太陽の光が眩しい。
緑色の広大な大地には、川や森や山脈があり、青と緑を基調としたキャンバスに描かれたアクセントのように思われた。
白い鳥が何羽か眼下を横切る。
飛空挺の甲板の縁に腕をついて、リディアはずっとその光景を眺めていた。
以前は見慣れていた風景のはずなのに、今は全てが新鮮に見える。
この風景を見るのはどのくらいぶりなのだろう。
リディアが計算しようとしたときに、明るい声がその思考を阻んだ。
「リディア、リディア!このドレスどう思う!?」
駆け寄ってきたのはジオット王の愛娘、ルカである。
リディアが視線を向けると、自分の腰ほどの背丈の小さなお姫様は、満面の笑みを浮かべて、くるりとその場でターンをした。
彼女の髪の色と同じような桃色のドレスの裾がふわりと持ち上がり、弧を描く。
微笑ましい気分になって、リディアはその感情をそのまま顔に浮かべた。
「かわいい!よく似合ってるわよ」
心からの感想を口にすると、ルカにもそれが伝わったようで、彼女はあどけない顔に、はにかんだ笑顔を浮かべた。
その場でルカは何度かターンをしたり、おじぎの練習をしていたが、やがてリディアの手を取って、きらきらとした瞳で彼女の顔を見上げてきた。
「リディアのドレスも見たいな」
無邪気にせがまれ、リディアは少し困ってルカの小さな肩に手を置いた。
「ドレス、持ってこなかったんだよね」
ええっ!とルカが信じられないと言ったような声を上げる。
それは、ドレスを持っていないことへの驚きの声でもあったが、同時にリディアのドレスが見られないことが残念で上げた声のようにも聞こえた。
「ダメだよ!結婚式なんだから、ドレスくらい着なきゃ!」
ルカの大人ぶった口調は、まるで立場が逆転したかのようだ。彼女は少し得意げな顔をして、小さな手を腰にあてた。
「バロンに着いたら、ドレス用意しようね!わたしが選んであげる!」
嬉しそうな彼女の言葉は嫌と言えない強制力を持っていて、リディアは曖昧な笑顔を浮かべて頷いたのであった。
リディアはジオット王やルカと共に飛空挺に乗り、セシルとローザの結婚式と戴冠式に出席するためバロンへ向かっていた。
先程計算したところ、自分が地上に出てくるのは、地上の時間で半年ぶりだということがわかった。
たった半年なのに。
リディアはその事実に気がついて、自分の中との感覚の差に少し驚いた。
ずいぶんと久し振りに感じられたのは、やはり幻界の時の流れが速いからなのだろうか。
半年ぶりに仰ぎ見る空は、相変わらず青い。
その青さが、何故か軽く彼女の胸を締め付けて、リディアは少し息苦しさを覚えた。
この胸の痛みの正体はなんだろう。
深く呼吸をして、自分自身に問いかける。
脳裏に浮かんだのは故郷ののどかな風景だ。
青い空、広い草原、深い森、険しい山。
飛空挺から俯瞰する地上世界の風景は、全て故郷のミストの村に直結していた。
空は相変わらずどこまでも青い。
リディアは胸の痛みと息苦しさから解放されたくて、もう一度深く深呼吸をした。
バロンの街は、新国王の戴冠と結婚という二つの慶事が一緒に訪れたことにより、いつになく活気に溢れていた。
店や民家には、軒並み勇猛なバロンの国旗が掲げられている。
至るところでセシルとローザの肖像画が売られており、人々はこぞってそれを買い求めていた。
肖像画の中のふたりは、本人と見まがうほどの美しさである。
仰々しい額縁に入れられて飾ってあるのを見かけるたびに、リディアはその美しさに思わず感嘆の溜息をついた。
広場に掲げられた肖像画を見上げていると、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「リディア!!」
「シドのおじちゃん!」
慌ただしい音を立てて大股で走り寄ってきたのは、トレードマークのゴーグルをかけ、つなぎの作業服を着た姿のシドである。
久し振りの再会だ。嬉しくなってシドの丸い身体に抱きつくと、大きな手が自分を包み込んだ。
「久し振りじゃな。元気にしとったか?」
身体を離すと、シドは大きな手でリディアの手を握り、優しく目を細めた。
「うん。おじちゃんも元気そうでよかった」
リディアの言葉に、シドは豪快に笑う。変わりない彼の様子に、リディアも安堵する。
「がはは!元気だけがとりえじゃからな。家じゃいつもうるさいと言われとるわ」
シドの娘の話は、いつの間にかセシルとローザの話になり、そのうち思い出話に花が咲く。
広場で立ったまましばらく話していると、袖を引っ張られた。ルカである。
「リディア、早くドレス買いに行こうよ」
間に合わなくなっちゃうよ、と付け足した後、ルカは目の前にいるシドに気がつき、慌てておじぎをした。
「あっ、シドさん。こんにちは」
「おお、ルカも一緒じゃったか」
孫を見るような優しい表情で、シドはルカの頭を撫でた。
シドに会えたのが嬉しかったのか、ルカは眩しそうにシドを見上げて早口で話し始める。
少し前に小さなプロペラ飛行機の模型を完成させたこと。今はからくり人形を作ろうとしていること。
自分の研究成果を一通り報告した後、ルカは思い出したように、殊更大きな声でシドに訴えた。
「シドさん、聞いて!リディアったら、結婚式に出るのにドレスも持ってこなかったのよ!」
ルカの言葉にリディアが苦笑いを浮かべると、シドはまた豪快な笑い声を上げた。
「がはは!!やっぱりな!」
リディアらしいのう、と言って、シドはリディアに向き直り、茶目っ気たっぷりにゴーグルの中の片目を瞑った。
「安心しろ。そんなことじゃろうと思って、リディアにはちゃんとドレスを用意しておる」
リディアとルカの驚きの声が重なる。しかし、ルカの驚きの声は、すぐに感嘆の声に変わった。
「さすがシドさん!早くそのドレス見たいな!」
用意されているというドレスへの興味が抑えきれないらしく、ルカはシドの手を引く。
シドは満面の笑みで、ルカの手を握り返す。
「そりゃあもう、綺麗なドレスだぞ。でも明日までお預けじゃ」
ルカが不満そうな声を上げる。ふたりのやりとりをよそに、リディアはシドの好意に感謝よりも戸惑いを覚えた。
「おじちゃん、本当にもう用意してくれてるの?」
自分の困った表情を吹き飛ばすかのように、シドはまたもや豪快な笑い声を上げ、リディアの肩を叩いた。
「うちの娘のおさがりじゃから、そんなに気にするな。おっ、もうこんな時間か。城に行かないと」
リディアの戸惑いの理由をも笑い飛ばし、シドは明朝自分の家に来るようにとリディアに言いつけて、お礼を言う間もなく、その場から走り去った。
あっけにとられてその姿を見送る。隣のルカが楽しそうな視線で自分を見上げていた。
戴冠式兼結婚式の当日、バロンの街は歓喜の渦に包まれていた。
新国王と王妃の姿を見ようと、人の群れが城に向かって行く。
顔を横に向けて窓の外の景色を眺めていると、少し困ったような声がした。
「もうちょっとで終わりますから、少し正面を見ててくださいね」
その声に促され、短く謝ってリディアは正面を向き、鏡の中の自分を見つめた。
シドの娘が、リディアの髪の毛を器用に結い上げている。耳の後ろの低い位置で長い髪の毛を一回転させて、ピンで留める。
後れ毛をそのままにゆるくまとめられた髪の毛の根元に、甘い香りのする花が差し込まれると、鏡の中でシドの娘と視線が合った。
「できました!」
満足げにシドの娘が手を合わせる。リディアは背後に立つ彼女に向かって身体を向けて、頭を下げた。
「ドレスを借りた上に、お化粧までしてもらっちゃって、ごめんなさい。ありがとうございます」
リディアがそう言うと、シドの娘は少し驚いたような顔をした。
「父がそう言ったんですか?」
リディアは頷いて、椅子から立ち上がり、鏡に映る自分の頭からつま先までを眺めた。
落ち着いた金色のドレスは、あつらえたように自分にぴったりだった。
上品に輝くシルク素材のレースが胸からくるぶしまで幾重にも重ねられていて、見るからに上等だ。
繊細なレースとリボンで飾られている同じような素材で出来た靴は、つま先が尖っている上に踵が少し高い。
この姿に似つかわしい振る舞いをしなければ、と鏡の前で自分を戒める。
シドの娘はそんなリディアの姿を優しい笑顔で眺めていたが、やがて気がついたように手を叩いた。
「いけない。お迎えがいらしてるんでした」
彼女はいたずらっぽく舌を出す。どうやら着替えや化粧を手伝うのが楽しかったようで、ついつい時間がかかってしまったようだ。
迎えなどなくても城へ行ける、とリディアは主張したが、ドレスを着た若い娘が歩いて城に向かうなんてありえない!というシドの強い語調に折れて、リディアはしぶしぶ馬車に乗って城へ向かうことを承知したのである。
ルカはジオット王と共に、先に城へ向かっていた。
リディアはシドの娘の笑顔に見送られ、簡素だが美しい造形の馬車に一人で乗り込んだ。
馬車の小さな窓から眺める青い空には、雲ひとつない。
やはりその青さが目に沁みて、リディアは小さく息をついた。
喧騒の中心であるバロン城は、小さな国旗を手に持つ人垣が周辺を取り囲んでいた。
皆、セシルとローザを一目見ようとここまで押しかけているのだ。
ふたりをよく知るリディアは、少し誇らしい気持ちになった。
御者の手を借りて馬車を降り、赤い絨毯の上を王の間に向けて歩く。
城内も色とりどりの花々が飾られていて、軍事国家の強固な城とは思えない華やかさである。
近衛兵がリディアの姿を見て敬礼する。
それに対してお辞儀を返していると、一人の兵士が微笑んで、もう皆さんお揃いですよ、と教えてくれた。
その言葉に、足取りが早まる。
王の間へ続く大きな扉は開け放たれていた。
少し早足でその扉を通り過ぎると、正面の左側には正装をしたセシルが、右側には美しい白いドレスを着たローザが立っており、左右には見慣れた面々が並んでいる。
「リディア!」
向かって右側に立つ桃色のドレスを着たルカが、自分に気がついて声を上げる。
小さく手を振って答えると、ルカは全身を使うように大きく手を振って返した。
ルカの隣にはジオット王がいる。
その手前では、ギルバートが上品な笑顔を浮かべて自分を見ている。
逆側には頭を押さえたパロムと、すました顔のポロムが並んでいる。
双子の姉弟の横に立つミシディアの長老と目が合い、リディアは膝を折って軽くお辞儀をした。
更にその奥にはシドとヤンがいた。ヤンが優しい笑顔で頷いたので、リディアも微笑んで頭を下げた。
もう一度、ルカが立っている方の列に目をやると、ジオット王の奥のローザに一番近いところに、エッジが立っていることに気がついた。
しかし、彼は自分が入ってきたことに気づいていないのか、王の間を取り巻く人々を眺めるように、周囲に視線を向けている。
リディアは歩を進め、壇上のセシルとローザの前で、以前ローザに教えてもらった作法の通り、膝を折ってドレスの裾を少し持ち上げた。
それに応じて、ふたりが微笑んでお辞儀をする。
「セシル、ローザ、本当におめでとう」
近くで見るセシルとローザの姿は、立派と言う以外に適当な言葉が見当たらなかった。
彼らの周辺だけ、光が凝縮したかのように明るく見える。大国の王者としての貫禄がそう見せているのだろうか。
「ありがとう、リディア」
微笑んだセシルの表情は、一緒に旅をしているときよりも威厳に溢れていて、頼もしさを感じさせるものだったが、その威厳に満ちた表情の裏に、彼本来の優しさが窺えて、リディアは安堵の笑顔を浮かべた。
ローザの美しさは本当に筆舌に尽くしがたい。
少し光沢のある素材の純白のドレスは、細かな刺繍や模様が施されていて、華美すぎないことで、彼女の美しさや上品さを引き立てている。
聖母のような優しさを兼ね備えた美しい顔に薄く引かれた紅が、白い肌とのコントラストを醸し出していて、リディアはその美しさに胸が高鳴った。
ほとんど見とれるような状態で彼女を見つめていると、透けるヴェールの向こうでローザが上品に微笑む。
「リディア、そのドレス本当に素敵ね」
自分の何倍も素敵に見えるローザからそんな言葉をかけられて、リディアは慌てて首を振った。
「そんなことないよ!ローザこそ、本当に綺麗だね」
リディアの言葉に、ローザはありがとう、と言って目を細めた。
挨拶が済み、リディアは慣れない靴の所為で転ばないように気をつけながら壇上から降りる。
すぐ近くに立っているエッジはまだ自分の存在に気がつかないようだ。
王の間の装飾を眺めるように、入り口の扉付近を見上げている。
忍者なのに、注意力散漫だ。リディアは少しおかしくなって、エッジの前に立った。
「エッジ、久し振り」
声をかけて、やっと気づいたように、エッジが自分に顔を向ける。
リディアが膝を折ってお辞儀をすると、エッジは素っ気なく手を挙げた。
「おう」
短い彼の言葉に物足りなさを覚えて、リディアは腰に手をあてた。
「もう、エッジったら。もうちょっと再会を喜んでくれたっていいじゃない」
正装の彼は苦笑して、腕を組んだ。
「はいはい。後でな、お子様」
軽くあしらわれたのが悔しくて、頬を膨らませると、エッジの紫がかった空色の瞳が、優しく細められた気がした。
数秒前の彼とは別人のような顔に、リディアは少し戸惑いを覚えながら、参列者の列の一番後ろに並んだ。
黄金の王冠を戴いたセシルが、城のバルコニーに姿を現した瞬間、城壁のように連なる人垣から大きな歓声が沸いた。
セシルと、横に立つローザが手を振ると、歓声は勢いを増し、城中を包み込んだ。
「すごいね!」
別の部屋のバルコニーから、リディアはその様子を眺めていた。
熱狂的な民衆の声と、美しい国王夫妻を見て、リディアにはそれ以外の言葉が思い当たらなかった。
ギルバートがリディアの率直な感想に微笑む。
「セシルもローザも立派だね」
ふたりは何度も向きを変えながら、悠然と手を振っている。
確かに、自分がこんなに大勢の人の前であれだけ堂々と振舞えるかと言われたら無理かもしれない。
リディアは感心の念を強くして、大きく頷いた。
「ローザ綺麗だったなあ」
純白のドレスに包まれた彼女の姿を思い出し、うっとりしたように言うと、ギルバートの視線を感じた。
「リディアもとっても綺麗だよ」
そもそも全く着飾るつもりがなかった自分に対してもったいない言葉に感じられて、リディアは首を振った。
「このドレスも靴も借り物だし、かなり突貫工事で化けたんだよ」
驚きだろうか、感心だろうか。ギルバートが自分の全身を眺めて短く声を上げる。
「そうなんだ。それにしてはぴったりだね」
本当に、とリディアは苦笑した。
太陽の光に照らされて、光り輝く金色のシルクのレースがふわりと風に舞う。
ギルバートがリュートを手にする。
弦から澄んだ音が奏でられ、美しい声で歌を歌う。
初めて聞く歌だ。
その歌は、ダムシアンを始めとする、世界の美しさへの賛歌であった。
リディアは瞳を閉じて、その歌に聞き入った。
一日の始まりの朝焼け。鳥の歌声で目覚める人々に、優しい光は希望を与える。
天高く太陽が輝く昼。青く澄み渡る空の下、すべての生命がその命を謳歌するように活気溢れる時間。
全てが赤く照らされる夕暮れ。光の扉は、燃えるような赤い光を残し、ゆっくりと閉じられる。
星が瞬く夜。漆黒の闇は生けるものに静けさと安らぎを与え、全ての罪を赦し、溶かしていく。
瞳を開けて空を見上げると、ギルバートの歌の通り、吸い込まれそうなくらい青く澄み渡っている。
どこからか飛んできた花びらがくるくると舞いながら、かなたへ飛んで行った。
美しい光景だと思った瞬間、また胸が締め付けられた。
その感覚は気のせいではない。
思わず胸を押さえる。リュートの美しい調べが少し悲しく聞こえた。
ギルバートが奏でる繊細な音楽に引き寄せられるように、バルコニーには次から次へと人がやってきた。
元気いっぱいに最近の武勇伝を語ったパロムは、綺麗な音楽の前なのだから静かにしなさいと姉のポロムにたしなめられた。
王となったヤンは、美しい妻と、小さな娘を連れてきて、リディアに紹介した。娘の意志の強そうな瞳が妻にそっくりだった。
ルカは借り物のドレスの裾を掴んで、うっとりと目を細める。次の機会には、絶対に自分がリディアに着せるドレスを選ぶと意気揚々に宣言した。
誰と会っても話に花が咲く。こんなに笑ったのは久し振りだった。
人の往来が途切れたとき、ふいに、脳裏に幻界を出る前に言われたアスラの言葉が思い出された。
「お二方の結婚式に行ったあと、ミストの村に寄ってきてはどうかしら」
その言葉を思い出した瞬間、リディアは胸の痛みが強くなるのを感じた。
ミストに帰りたいの?
心の中で呟いてみると、その疑問を抱いたことすら馬鹿馬鹿しく思えるくらい、自分の素直な気持ちに気がついた。
・・・・ミストに帰ってみたい。
その気持ちはみるみるうちに大きくなって、リディアの心を支配した。
やがて、望郷の念以外のものが心の中に芽生え始めた。
セシルとローザ。シドのおじちゃん。ギルバート。ヤン。みんな優しい。
ルカ。パロムとポロム。可愛くて、何かをしてあげたいと思う。
今日は会えなかったけれど、カインもきっとどこかでセシルとローザを見守っているだろう。いつか会えたら、今日の様子を話そう。
そして、とてもそうは見えないうるさい王子様・・・・
自分を取り巻く人物の顔が脳裏に浮かぶと、リディアは幸せな気分になると同時に寂しさを覚えた。
幻獣王様や王妃様。幻獣たち。みんな大好きだけど、みんな優しいけれど・・・・
ふいに、少し高貴で神秘的な香りが鼻先を掠めて、リディアはその香りの心地よさに思考を止めた。
「再会を喜びに来てやったぞ。お子様」
粗野な物言いに驚いて瞳を開けて振り返ると、バルコニーと部屋をつなぐ扉のところに笑顔を浮かべたエッジが立っていた。
とてもそうは見えないうるさい王子様。
さっき脳裏に浮かんだイメージそのままの彼の姿がおかしくて、リディアは少し笑ってしまった。
エッジが怪訝そうな顔を浮かべるのも面白い。
リュートの音は聞こえなくなっていて、ギルバートの姿は見えなかった。
まさか眠ってしまっていたのだろうか。
自分の暢気さが面白くて、もう一回笑うと、エッジが腕を組んだ。
「何笑ってんだよ」
「なんでもない」
リディアが首を振ると、エッジはバルコニーの縁に手をついて、街の様子を見下ろした。
リディアも隣に立って、周囲を見渡してみる。バルコニーにはセシルとローザの姿はもうなかったが、城の周りから人垣が解散する様子は見られない。
周囲を見渡した終着点に、隣に立つエッジの姿があった。
いつもと同じような形の白い衣は、いつものそれよりも上質の素材でできているように見えた。
風に翻る紫色のマントも、いつもと同じような色ではあったが、裏に銀色の糸の細かい刺繍が施されている。
耳に光る赤い宝石はいつもと変わらない。彼はそのピアスを気に入っているのだろうなと思った。
鼻梁は高く、空色で切れ長の瞳は聡明そうで、その顔は気品があると言ってもいいのかもしれない。
銀色の髪の毛が光を反射しながら、さらさらと揺れた。
「エッジって、黙ってればかっこいいのに」
思わず漏らした本音に、リディアは少し後悔した。こんなことを言ったら、エッジは絶対図に乗るに違いない。
しかし、リディアの予想をよそに、エッジは不機嫌そうに眉を寄せた。
「いつでも男前だっての」
「はいはい」
図に乗るよりも性質が悪かったかもしれない。リディアは呆れて、彼の言葉をさらりと流した。
リディアの応答に、エッジは怒るでもなく吹き出して、その正装に似合わないくらい陽気に大声で笑い出した。
やっぱり前言撤回だ。その姿を見てリディアは心の中で宣言し、自らもお腹を押さえて大きな口を開けて笑った。
以前は日常的だったこんなやりとりが、すごく懐かしく感じられる。
また胸が痛む。笑い声が止まり、思わず目を伏せる。
「お前、なんか元気ねえな」
エッジの声に、リディアは反射的に顔を上げた。
「めでたい日なのに、辛気臭いガキだな。なんかあったのか」
ぶっきらぼうな言い方だが、今日会った誰にも指摘されなかったことを、この短時間で言い当てられたことに少し驚きながら、リディアは苦笑を浮かべた。
「え?そう見える?何もないんだけど」
否定をすると、エッジは長い息を吐き出して、リディアの右頬を軽くつまんだ。
「オレ様の目をごまかそうなんて百年早いぜ。顔に書いてあるぞ。話を聞いてー!って」
まさかと思いながら、右頬をつままれた指の上に手を当てる。
しかし、その仕草は何か引っかかることがあるということを肯定する動作になってしまうではないか。
後から気がついて、リディアは観念したように、胸にひっかかった溜息を吐き出した。
エッジが自分の頬から手を離したのを合図にして、リディアは胸の中にある言葉を紡ぎ出した。
「ミストの村に帰ることなんて、到底できないと思ってたの。
きっと、村にはまだバロンを・・・・セシルとカインを憎んでいる人がいる。
そのふたりを許してしまって、彼らと一緒に戦ったあたしを許してくれない人が絶対いるだろうから」
紅蓮の炎に包まれた小さな村の光景が脳裏に蘇る。
逃げ惑う人々。動かなくなってしまった母。泣き喚く小さな自分。
赤く染まった悲惨な光景が、まざまざと脳裏に蘇る。
独白は、青い空に吸い込まれていく。
エッジの視線を横顔に感じながら、リディアは続けた。
「だから、月から帰ってきた後、幻界に行ったの。あそこならきっと何かできると思ったし、第二の故郷だから」
何度めだろう。リディアは、広い空を仰いだ。
白い光を放つ太陽が眩しい。
純白の雲がひとつだけぽっかりと浮かんでいて、ゆっくりと流れていく。
雲に負けないくらい純白の翼を持つ大きな鳥が風に乗って、大きな弧を描いている。
色とりどりの花びらが楽しそうに踊っている。
「でも、多分、この空を見たときに、やっぱり地上っていいなって思ったんだ」
幻界に物足りなさを感じたことはなかった。
幻獣王様や王妃様、幻獣たちがいたから寂しくはなかったし、一生かかっても読みきれない本がそこにはあった。
そこまで考えて、リディアはひとつだけ寂しいと思ったことを思い出した。
幻界に、地上に生けるような植物がないことだ。
その気持ちは、エッジが送ってくれた花の種や球根を育てることで、解消されていた。
しかし。リディアは思った。
本当に自分が寂しいと思ったのは植物だけだったのだろうか?
幻界への物足りなさや寂しさを感じたくないがために、他のものに対しても芽生える自分の気持ちに気がつかないふりをしていただけなのだろうか。
物足りない、寂しい、と思うことで、自分や、周りの全てを否定してしまうから、必死でその気持ちを打ち消していたのではないだろうか。
地上の世界を美しいと思うことは、大好きな幻獣王様や王妃様、幻獣たちへの裏切りになると思ったのだ。
だから胸が痛んだ・・・・・・・・
「で、ミストに帰りたくなったのか」
負の思考に全身が覆われそうになったところに、エッジが救いの言葉を挟んでくれたので、リディアは微笑みながら曖昧に頷いた。
その微笑はいびつだったかもしれない。
「帰りたいって言うのかな。ミストのために何かしたいと思ったの。それがあたしの罪滅ぼしになるかもしれない」
罪滅ぼし。無意識に出たその言葉が、自分の心情を最もよく表しているように思った。
故郷を裏切ったと思われても仕方がない自分。
しかし、あの故郷がなければ、きっと自分は先の戦いを戦い抜く力を持たなかったはずだ。
だから、ミストのために、何かしたい。
そして、ミストに美しさを取り戻したい。
彼の反応が知りたくて、リディアは視線を空から横に立つエッジに移した。
視線が合うと、エッジはリディアの頬の横に手を伸ばした。
彼の何気ない仕草に、何故か胸が鼓動が早くなる。
しかし、その手はリディアの頬を素通りして、横に垂れる髪の毛に到達した。
髪の毛に花びらが引っかかっていたらしい。解放された花びらは、他の無数の花びらと一緒に風の中へ舞っていく。
切れ長の目が細められる。今の鼓動の高鳴りが伝わってしまったのではないかと想像して、リディアは少し心配になった。
「なんでだろうな。故郷って、忘れられないよな」
独り言のような彼の言葉に、リディアは自分の心配が無用なものであったことに安心し、次の言葉を鎮まった心で待った。
「少しの間、忘れることはできるかもしれない。でも、オレは自分の故郷を心から捨てられる奴なんていないと思う」
あのバカもな、とエッジが付け足した。誰のことだろう、とリディアは首を傾げたが、エッジは笑ってごまかした。
「でもな、故郷も自分を忘れないんだぜ」
意味がわからなくて少し眉を寄せると、エッジはいつもの自信に溢れる笑顔を浮かべた。
「自分が故郷を忘れないで、大事にする気持ちがあれば、故郷はいつでも自分を受け入れてくれる」
大事にする気持ちがあれば、というところが引っかかり、リディアは思わずエッジに問いかけてしまった。
「あたしは、故郷を大事にしてるのかな?」
故郷の敵とも言える人間を許し、故郷によって育まれた力を持って、共に戦ってしまった自分。
壊滅状態の故郷を捨てて、幻界に行ってしまった自分。
赤く燃える村の光景がもう一度思い出されて、リディアは頭を振ってその光景を追いやろうとした。
伸ばされた大きな手は、今度は頭の上に着地した。
どう表現するのが適当なのかわからない、神秘的な香りがする。
「ミストのために何かしたいって言うのは、これから大事にしようとしてるってことだろ。大丈夫だ」
大丈夫。エッジにそう言われると、本当になんとかなりそうな気がしてくるのが不思議だった。
その単語をリディアの全身に浸透させるかのように、自分の頭を撫でながら、エッジは繰り返した。
「大丈夫なんだろ。ひとりじゃないから」
聞いたことのある言葉は、以前自分がエッジにかけたものだ。
思い出したか、と言いたげな彼が白い歯を見せた。
全てを見透かしたようなエッジの瞳の色は、朝の空の色だった。
その色に、ギルバートの歌が思い出される。
・・・・一日の始まりの朝焼け。鳥の歌声で目覚める人々に、優しい光は希望を与える。
エッジの瞳は希望の色なんだ。
確かに、今、自分に希望を与えてくれた。
まったく関係なさそうなふたつのものを無理矢理結びつけて感動を覚えている自分に気がついて、リディアは照れ笑いを浮かべてしまった。
この恥ずかしさがエッジに伝わらないように、リディアはもう一度大きな空を見上げた。
「やっぱり、この世界は綺麗」
西の空が少し赤く染まりかけていた。
無数の花びらが、空に不規則な模様を描き続けていた。
国情を考慮してか、豪華絢爛とは言えないが、上品な料理が並んだ晩餐の後、与えられた部屋で着替えをしようと回廊を歩いていたところ、婚礼の衣装から少し軽装に着替えたローザが後ろから早足で追いかけてきた。
「やっとリディアとお話できるわね」
無邪気にドレスの裾を上げて走り寄ってくる仕草は、優雅さを兼ね備えながらも可愛らしい。リディアは自然と顔がほころんだ。
舞踏曲が遠くから聞こえる。
その曲のようになめらかな視線でリディアの全身を見やり、ローザは薔薇のように美しい笑顔を見せた。
「本当に今日のリディアは素敵よ」
婚礼の儀のときにもかけられた言葉は、恐らく今宵世界で一番美と幸福に包まれた王妃から受ける言葉としては恐縮すぎて、リディアはまたもや頭を振った。
「本当に、そんなことないの。このドレスもシドの娘さんから借りたんだよ」
少し恥ずかしくなって、ローザの耳元で小声で告白すると、彼女は一瞬不思議そうな表情になった後、楽しそうな笑顔を浮かべた。
「あら、そういうことになっているの」
首を傾げると、ローザは楽しそうな表情のままリディアの肩に手を置いた。
「みんな、リディアには赤とか桃色とか、そういう色のドレスがいいって言ってたのよ。
でもそれじゃ髪の毛の色に合わないし、可愛すぎてガキっぽいから、もう少し大人っぽい上品な色の方がいいって主張する人がいてね」
話していて思い出したそのときの出来事が面白かったのか、ローザは口に手をあてて少し笑った後、そのドレスで本当に正解だったわね、とにっこり微笑んだ。
彼女の言葉に少し違和感を覚えたが、今日一日は儀式だらけであろう彼女が、わざわざ自分のために時間を割いてくれたことが嬉しくて、リディアはローザの言葉の意味を深く考えずに、微笑み返した。
リディアが与えられた城の一室に戻ると、シドの娘が着替えを手伝うためにすでに待機していた。
ドレスを借りたことについてお礼を述べると、娘は困ったように首を振った。
「これ、私のドレスではないんです」
私にはこんなに細いドレスは入りませんし、と付け足して、彼女は苦笑を浮かべる。
「じゃあ、このドレスは・・・・」
娘は、リディアの疑問を解消しようと考えてくれているのか、このドレスにまつわる話を語り始めた。
ある日シドが嬉しそうな顔をして、大きな箱を持って、家に帰ってきた。
また飛空挺の部品だろうかと呆れながらその箱を開けると、中から出てきたのは、金色に光り輝く美しいドレスで、娘は思わず感嘆を上げた。
しかし、とても自分が着るようなドレスではない。
疑問を感じて彼女が父に聞くと、新国王夫妻の戴冠式兼結婚式の際にリディアが着るドレスを預かったとのことだった。
その際には準備を手伝えと言いつけられ、美しいドレスに心が躍り、彼女は二つ返事で了承したらしい。
彼女の話を聞いて、リディアは様々なことに対して妙に納得することができた。
よく見るとシドの娘はリディアよりもずっと小柄で、とてもこのドレスがおさがりだとは思えなかったからだ。
自分の姿を見た、人々の反応の理由もわかる。やはり、このドレスは自分のために作られたものだったのだ。
でも誰が?リディアは疑問を抱き続けていた。
最大の疑問の部分はシドの娘の話を聞いても不明なままだった。
シドは「預かった」と言ったらしいから、シドではない。
セシルとローザだろうか?主賓自ら客の衣装を用意してくれたとなると恐れ多い。
そこで、先程のローザとの会話が思い出された。
みんな、リディアには赤とか桃色とか、そういう色のドレスがいいって言ってたのよ。
でもそれじゃ髪の毛の色に合わないし、可愛すぎてガキっぽいから、もう少し大人っぽい上品な色の方がいいって主張する人がいてね。
反芻してみて、あのとき感じた違和感の正体をリディアは突き止めた気がした。
謎解きが終わって、その答えを早く伝えたい子供のような衝動が抑えられず、リディアはシドの娘にお礼と、もう少し待ってほしい旨を伝え、ドレス姿のままで部屋を飛び出した。
シドとエッジの笑い声が聞こえ、リディアはその部屋の前で足を止めた。
ドアを開けて中を覗くと、晩餐が終わったあとも、ふたりは小さなサロンで杯を交わしていたらしい。
そのふたりの横に立つと、紫がかった視線だけで何をしに来たのか問われた。
素っ気ない彼の態度が面白いと思った。リディアは昼間もしたように膝を折って、お辞儀をしてみせる。
エッジは口を開けてその様子を眺めていた。
「ありがと。このドレス、エッジが用意してくれたんでしょ」
お礼の言葉を述べると、シドはにやりと目を細め、エッジは一瞬ばつの悪そうな顔をして、視線を逸らした。
リディアはそんな彼の様子に確信を強めるが、気丈にもエッジは疑惑を否定してみせた。
「知らねえよ」
あくまでもとぼけるつもりらしい。シドを見ると、楽しそうに笑っている。
さらに確信を強め、リディアは追求を続けた。
「嘘ばっかり。あたしのことガキなんて言って、大人っぽいものを勧めるのはエッジだけなんだから」
証拠を突きつけると、犯人は憎憎しげに誰だよ、と吐き捨て、それが自白となった。
リディアは満足感から満面の笑みを浮かべた。
証人の名は出さないでおこう。その方が面白そうだ。
やりとりを見ていたシドが大きな声を上げて笑う。
「がはは!かっこつけようとしたのに、残念じゃったなあ、王子様!」
シドの言葉にうんざりとしたようにエッジが額に手を当てる。
情けない顔はとても格好いいなどという形容詞からはかけ離れていて、リディアは笑いながら追い討ちをかけた。
「黙ってて、真面目な顔してればかっこいいから大丈夫だよ」
「だから!オレ様はいつでもかっこいいって言ってるだろ!!・・・・って、ああ!もう!!」
反論しながらも、ドレスの件が露呈したのが余程恥ずかしかったのか、エッジはがっくりとうなだれた。
なんだか全てが面白くて、シドと顔を見合わせて笑った。
エッジがやっと顔をあげて、やけを起こしたかのように、大きなグラスに注がれた酒を飲み干したのを見計らい、リディアは昼に話してからずっと思っていたことを思い切って口にした。
「エッジ、お願いがあるの」
「なんだよ」
拗ねたようなエッジの顔にやや緊張感を覚えながら、リディアは勇気を持って、次の言葉を搾り出した。
「・・・・明日、一緒に、ミストの村に行ってもらえないかな」
エッジは無言で、リディアの真意を探ろうとしているのか、空色の瞳を少し見開いた。
先程とは同一人物とは思えないくらい真剣な眼差しだ。
澄んだ瞳は自分の心を見透かして、何を思っているのだろう。心の中を不安がよぎる。
やっぱり前言撤回しようかな、と思った瞬間、シドが逞しい腕をエッジの頭めがけて振り下ろした。
「いて!!」
「お前はバカか!!綺麗なお嬢ちゃんが誘ってるのに、嬉しすぎて返事しないなんて、男のクズじゃ!!」
頭を抱えてうずくまるエッジの代わりと言わんばかりの勢いで、シドがリディアの手を大きな手で強く握った。
「こんな奴で良ければいつでも連れて行け。護衛でも、荷物持ちでも、なんでもやらせていいんじゃからな」
「ジジイ・・・・オレの意思は無視かよ・・・・」
頭を押さえながら、エッジは抗議の視線をシドに向けている。
シドはそんなエッジの鋭い視線を物ともせず、にやにやとした笑顔を顔に貼り付けている。
「じゃ、せっかくのお誘いを断るのか」
シドの言葉に鋭い視線は突然勢いを失い、エッジはシドから顔を逸らして外方を向いた。
「仕方ねえな。ガキが迷子になっちゃ困るから一緒に行ってやるよ」
「あっ、また子供扱いした!」
不満を漏らすと、シドが相変わらずにやにやとした笑顔を浮かべて何度も頷いた。
「素直じゃない奴じゃのー。さっきまで今日のリディアは綺麗だったの色気があっただのとうるさかったくせにのー。
さんざん、惚れなお・・・・」
「うるせえ!お前ら!!」
エッジの怒声がシドの暴露を遮る。
リディアが吹き出すと、シドも豪快に笑い声を上げた。
本当によく笑う日だ。リディアは大きな口を開けながら、しみじみと思った。
様々な不安を、笑顔が吹き飛ばしてくれた。
窓の外は暗い。
でも、数時間すれば、この世界は明るい光に包まれる。
大丈夫なんだろ。ひとりじゃないから。
エッジの言葉と、彼の瞳と同じ色をした澄んだ朝の空を思い浮かべると、胸の奥がほのかに温かくなるのを感じた。
これが希望なのかな。リディアは、その温かさが逃げてしまわないように、胸の上に手を重ねた。
end
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続編:『曇り空の太陽』
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FF4のエンディング後、戴冠式あたりの話です。
長いので、休み休みどうぞーー。
この話の前の話、『青空の三日月』もよろしければご一緒にどうぞ。
『空は今でも青い』
久し振りに仰ぎ見る空と、眼下に広がる海の深い青が目に沁みる。
その果てない青い海に反射する太陽の光が眩しい。
緑色の広大な大地には、川や森や山脈があり、青と緑を基調としたキャンバスに描かれたアクセントのように思われた。
白い鳥が何羽か眼下を横切る。
飛空挺の甲板の縁に腕をついて、リディアはずっとその光景を眺めていた。
以前は見慣れていた風景のはずなのに、今は全てが新鮮に見える。
この風景を見るのはどのくらいぶりなのだろう。
リディアが計算しようとしたときに、明るい声がその思考を阻んだ。
「リディア、リディア!このドレスどう思う!?」
駆け寄ってきたのはジオット王の愛娘、ルカである。
リディアが視線を向けると、自分の腰ほどの背丈の小さなお姫様は、満面の笑みを浮かべて、くるりとその場でターンをした。
彼女の髪の色と同じような桃色のドレスの裾がふわりと持ち上がり、弧を描く。
微笑ましい気分になって、リディアはその感情をそのまま顔に浮かべた。
「かわいい!よく似合ってるわよ」
心からの感想を口にすると、ルカにもそれが伝わったようで、彼女はあどけない顔に、はにかんだ笑顔を浮かべた。
その場でルカは何度かターンをしたり、おじぎの練習をしていたが、やがてリディアの手を取って、きらきらとした瞳で彼女の顔を見上げてきた。
「リディアのドレスも見たいな」
無邪気にせがまれ、リディアは少し困ってルカの小さな肩に手を置いた。
「ドレス、持ってこなかったんだよね」
ええっ!とルカが信じられないと言ったような声を上げる。
それは、ドレスを持っていないことへの驚きの声でもあったが、同時にリディアのドレスが見られないことが残念で上げた声のようにも聞こえた。
「ダメだよ!結婚式なんだから、ドレスくらい着なきゃ!」
ルカの大人ぶった口調は、まるで立場が逆転したかのようだ。彼女は少し得意げな顔をして、小さな手を腰にあてた。
「バロンに着いたら、ドレス用意しようね!わたしが選んであげる!」
嬉しそうな彼女の言葉は嫌と言えない強制力を持っていて、リディアは曖昧な笑顔を浮かべて頷いたのであった。
リディアはジオット王やルカと共に飛空挺に乗り、セシルとローザの結婚式と戴冠式に出席するためバロンへ向かっていた。
先程計算したところ、自分が地上に出てくるのは、地上の時間で半年ぶりだということがわかった。
たった半年なのに。
リディアはその事実に気がついて、自分の中との感覚の差に少し驚いた。
ずいぶんと久し振りに感じられたのは、やはり幻界の時の流れが速いからなのだろうか。
半年ぶりに仰ぎ見る空は、相変わらず青い。
その青さが、何故か軽く彼女の胸を締め付けて、リディアは少し息苦しさを覚えた。
この胸の痛みの正体はなんだろう。
深く呼吸をして、自分自身に問いかける。
脳裏に浮かんだのは故郷ののどかな風景だ。
青い空、広い草原、深い森、険しい山。
飛空挺から俯瞰する地上世界の風景は、全て故郷のミストの村に直結していた。
空は相変わらずどこまでも青い。
リディアは胸の痛みと息苦しさから解放されたくて、もう一度深く深呼吸をした。
バロンの街は、新国王の戴冠と結婚という二つの慶事が一緒に訪れたことにより、いつになく活気に溢れていた。
店や民家には、軒並み勇猛なバロンの国旗が掲げられている。
至るところでセシルとローザの肖像画が売られており、人々はこぞってそれを買い求めていた。
肖像画の中のふたりは、本人と見まがうほどの美しさである。
仰々しい額縁に入れられて飾ってあるのを見かけるたびに、リディアはその美しさに思わず感嘆の溜息をついた。
広場に掲げられた肖像画を見上げていると、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「リディア!!」
「シドのおじちゃん!」
慌ただしい音を立てて大股で走り寄ってきたのは、トレードマークのゴーグルをかけ、つなぎの作業服を着た姿のシドである。
久し振りの再会だ。嬉しくなってシドの丸い身体に抱きつくと、大きな手が自分を包み込んだ。
「久し振りじゃな。元気にしとったか?」
身体を離すと、シドは大きな手でリディアの手を握り、優しく目を細めた。
「うん。おじちゃんも元気そうでよかった」
リディアの言葉に、シドは豪快に笑う。変わりない彼の様子に、リディアも安堵する。
「がはは!元気だけがとりえじゃからな。家じゃいつもうるさいと言われとるわ」
シドの娘の話は、いつの間にかセシルとローザの話になり、そのうち思い出話に花が咲く。
広場で立ったまましばらく話していると、袖を引っ張られた。ルカである。
「リディア、早くドレス買いに行こうよ」
間に合わなくなっちゃうよ、と付け足した後、ルカは目の前にいるシドに気がつき、慌てておじぎをした。
「あっ、シドさん。こんにちは」
「おお、ルカも一緒じゃったか」
孫を見るような優しい表情で、シドはルカの頭を撫でた。
シドに会えたのが嬉しかったのか、ルカは眩しそうにシドを見上げて早口で話し始める。
少し前に小さなプロペラ飛行機の模型を完成させたこと。今はからくり人形を作ろうとしていること。
自分の研究成果を一通り報告した後、ルカは思い出したように、殊更大きな声でシドに訴えた。
「シドさん、聞いて!リディアったら、結婚式に出るのにドレスも持ってこなかったのよ!」
ルカの言葉にリディアが苦笑いを浮かべると、シドはまた豪快な笑い声を上げた。
「がはは!!やっぱりな!」
リディアらしいのう、と言って、シドはリディアに向き直り、茶目っ気たっぷりにゴーグルの中の片目を瞑った。
「安心しろ。そんなことじゃろうと思って、リディアにはちゃんとドレスを用意しておる」
リディアとルカの驚きの声が重なる。しかし、ルカの驚きの声は、すぐに感嘆の声に変わった。
「さすがシドさん!早くそのドレス見たいな!」
用意されているというドレスへの興味が抑えきれないらしく、ルカはシドの手を引く。
シドは満面の笑みで、ルカの手を握り返す。
「そりゃあもう、綺麗なドレスだぞ。でも明日までお預けじゃ」
ルカが不満そうな声を上げる。ふたりのやりとりをよそに、リディアはシドの好意に感謝よりも戸惑いを覚えた。
「おじちゃん、本当にもう用意してくれてるの?」
自分の困った表情を吹き飛ばすかのように、シドはまたもや豪快な笑い声を上げ、リディアの肩を叩いた。
「うちの娘のおさがりじゃから、そんなに気にするな。おっ、もうこんな時間か。城に行かないと」
リディアの戸惑いの理由をも笑い飛ばし、シドは明朝自分の家に来るようにとリディアに言いつけて、お礼を言う間もなく、その場から走り去った。
あっけにとられてその姿を見送る。隣のルカが楽しそうな視線で自分を見上げていた。
戴冠式兼結婚式の当日、バロンの街は歓喜の渦に包まれていた。
新国王と王妃の姿を見ようと、人の群れが城に向かって行く。
顔を横に向けて窓の外の景色を眺めていると、少し困ったような声がした。
「もうちょっとで終わりますから、少し正面を見ててくださいね」
その声に促され、短く謝ってリディアは正面を向き、鏡の中の自分を見つめた。
シドの娘が、リディアの髪の毛を器用に結い上げている。耳の後ろの低い位置で長い髪の毛を一回転させて、ピンで留める。
後れ毛をそのままにゆるくまとめられた髪の毛の根元に、甘い香りのする花が差し込まれると、鏡の中でシドの娘と視線が合った。
「できました!」
満足げにシドの娘が手を合わせる。リディアは背後に立つ彼女に向かって身体を向けて、頭を下げた。
「ドレスを借りた上に、お化粧までしてもらっちゃって、ごめんなさい。ありがとうございます」
リディアがそう言うと、シドの娘は少し驚いたような顔をした。
「父がそう言ったんですか?」
リディアは頷いて、椅子から立ち上がり、鏡に映る自分の頭からつま先までを眺めた。
落ち着いた金色のドレスは、あつらえたように自分にぴったりだった。
上品に輝くシルク素材のレースが胸からくるぶしまで幾重にも重ねられていて、見るからに上等だ。
繊細なレースとリボンで飾られている同じような素材で出来た靴は、つま先が尖っている上に踵が少し高い。
この姿に似つかわしい振る舞いをしなければ、と鏡の前で自分を戒める。
シドの娘はそんなリディアの姿を優しい笑顔で眺めていたが、やがて気がついたように手を叩いた。
「いけない。お迎えがいらしてるんでした」
彼女はいたずらっぽく舌を出す。どうやら着替えや化粧を手伝うのが楽しかったようで、ついつい時間がかかってしまったようだ。
迎えなどなくても城へ行ける、とリディアは主張したが、ドレスを着た若い娘が歩いて城に向かうなんてありえない!というシドの強い語調に折れて、リディアはしぶしぶ馬車に乗って城へ向かうことを承知したのである。
ルカはジオット王と共に、先に城へ向かっていた。
リディアはシドの娘の笑顔に見送られ、簡素だが美しい造形の馬車に一人で乗り込んだ。
馬車の小さな窓から眺める青い空には、雲ひとつない。
やはりその青さが目に沁みて、リディアは小さく息をついた。
喧騒の中心であるバロン城は、小さな国旗を手に持つ人垣が周辺を取り囲んでいた。
皆、セシルとローザを一目見ようとここまで押しかけているのだ。
ふたりをよく知るリディアは、少し誇らしい気持ちになった。
御者の手を借りて馬車を降り、赤い絨毯の上を王の間に向けて歩く。
城内も色とりどりの花々が飾られていて、軍事国家の強固な城とは思えない華やかさである。
近衛兵がリディアの姿を見て敬礼する。
それに対してお辞儀を返していると、一人の兵士が微笑んで、もう皆さんお揃いですよ、と教えてくれた。
その言葉に、足取りが早まる。
王の間へ続く大きな扉は開け放たれていた。
少し早足でその扉を通り過ぎると、正面の左側には正装をしたセシルが、右側には美しい白いドレスを着たローザが立っており、左右には見慣れた面々が並んでいる。
「リディア!」
向かって右側に立つ桃色のドレスを着たルカが、自分に気がついて声を上げる。
小さく手を振って答えると、ルカは全身を使うように大きく手を振って返した。
ルカの隣にはジオット王がいる。
その手前では、ギルバートが上品な笑顔を浮かべて自分を見ている。
逆側には頭を押さえたパロムと、すました顔のポロムが並んでいる。
双子の姉弟の横に立つミシディアの長老と目が合い、リディアは膝を折って軽くお辞儀をした。
更にその奥にはシドとヤンがいた。ヤンが優しい笑顔で頷いたので、リディアも微笑んで頭を下げた。
もう一度、ルカが立っている方の列に目をやると、ジオット王の奥のローザに一番近いところに、エッジが立っていることに気がついた。
しかし、彼は自分が入ってきたことに気づいていないのか、王の間を取り巻く人々を眺めるように、周囲に視線を向けている。
リディアは歩を進め、壇上のセシルとローザの前で、以前ローザに教えてもらった作法の通り、膝を折ってドレスの裾を少し持ち上げた。
それに応じて、ふたりが微笑んでお辞儀をする。
「セシル、ローザ、本当におめでとう」
近くで見るセシルとローザの姿は、立派と言う以外に適当な言葉が見当たらなかった。
彼らの周辺だけ、光が凝縮したかのように明るく見える。大国の王者としての貫禄がそう見せているのだろうか。
「ありがとう、リディア」
微笑んだセシルの表情は、一緒に旅をしているときよりも威厳に溢れていて、頼もしさを感じさせるものだったが、その威厳に満ちた表情の裏に、彼本来の優しさが窺えて、リディアは安堵の笑顔を浮かべた。
ローザの美しさは本当に筆舌に尽くしがたい。
少し光沢のある素材の純白のドレスは、細かな刺繍や模様が施されていて、華美すぎないことで、彼女の美しさや上品さを引き立てている。
聖母のような優しさを兼ね備えた美しい顔に薄く引かれた紅が、白い肌とのコントラストを醸し出していて、リディアはその美しさに胸が高鳴った。
ほとんど見とれるような状態で彼女を見つめていると、透けるヴェールの向こうでローザが上品に微笑む。
「リディア、そのドレス本当に素敵ね」
自分の何倍も素敵に見えるローザからそんな言葉をかけられて、リディアは慌てて首を振った。
「そんなことないよ!ローザこそ、本当に綺麗だね」
リディアの言葉に、ローザはありがとう、と言って目を細めた。
挨拶が済み、リディアは慣れない靴の所為で転ばないように気をつけながら壇上から降りる。
すぐ近くに立っているエッジはまだ自分の存在に気がつかないようだ。
王の間の装飾を眺めるように、入り口の扉付近を見上げている。
忍者なのに、注意力散漫だ。リディアは少しおかしくなって、エッジの前に立った。
「エッジ、久し振り」
声をかけて、やっと気づいたように、エッジが自分に顔を向ける。
リディアが膝を折ってお辞儀をすると、エッジは素っ気なく手を挙げた。
「おう」
短い彼の言葉に物足りなさを覚えて、リディアは腰に手をあてた。
「もう、エッジったら。もうちょっと再会を喜んでくれたっていいじゃない」
正装の彼は苦笑して、腕を組んだ。
「はいはい。後でな、お子様」
軽くあしらわれたのが悔しくて、頬を膨らませると、エッジの紫がかった空色の瞳が、優しく細められた気がした。
数秒前の彼とは別人のような顔に、リディアは少し戸惑いを覚えながら、参列者の列の一番後ろに並んだ。
黄金の王冠を戴いたセシルが、城のバルコニーに姿を現した瞬間、城壁のように連なる人垣から大きな歓声が沸いた。
セシルと、横に立つローザが手を振ると、歓声は勢いを増し、城中を包み込んだ。
「すごいね!」
別の部屋のバルコニーから、リディアはその様子を眺めていた。
熱狂的な民衆の声と、美しい国王夫妻を見て、リディアにはそれ以外の言葉が思い当たらなかった。
ギルバートがリディアの率直な感想に微笑む。
「セシルもローザも立派だね」
ふたりは何度も向きを変えながら、悠然と手を振っている。
確かに、自分がこんなに大勢の人の前であれだけ堂々と振舞えるかと言われたら無理かもしれない。
リディアは感心の念を強くして、大きく頷いた。
「ローザ綺麗だったなあ」
純白のドレスに包まれた彼女の姿を思い出し、うっとりしたように言うと、ギルバートの視線を感じた。
「リディアもとっても綺麗だよ」
そもそも全く着飾るつもりがなかった自分に対してもったいない言葉に感じられて、リディアは首を振った。
「このドレスも靴も借り物だし、かなり突貫工事で化けたんだよ」
驚きだろうか、感心だろうか。ギルバートが自分の全身を眺めて短く声を上げる。
「そうなんだ。それにしてはぴったりだね」
本当に、とリディアは苦笑した。
太陽の光に照らされて、光り輝く金色のシルクのレースがふわりと風に舞う。
ギルバートがリュートを手にする。
弦から澄んだ音が奏でられ、美しい声で歌を歌う。
初めて聞く歌だ。
その歌は、ダムシアンを始めとする、世界の美しさへの賛歌であった。
リディアは瞳を閉じて、その歌に聞き入った。
一日の始まりの朝焼け。鳥の歌声で目覚める人々に、優しい光は希望を与える。
天高く太陽が輝く昼。青く澄み渡る空の下、すべての生命がその命を謳歌するように活気溢れる時間。
全てが赤く照らされる夕暮れ。光の扉は、燃えるような赤い光を残し、ゆっくりと閉じられる。
星が瞬く夜。漆黒の闇は生けるものに静けさと安らぎを与え、全ての罪を赦し、溶かしていく。
瞳を開けて空を見上げると、ギルバートの歌の通り、吸い込まれそうなくらい青く澄み渡っている。
どこからか飛んできた花びらがくるくると舞いながら、かなたへ飛んで行った。
美しい光景だと思った瞬間、また胸が締め付けられた。
その感覚は気のせいではない。
思わず胸を押さえる。リュートの美しい調べが少し悲しく聞こえた。
ギルバートが奏でる繊細な音楽に引き寄せられるように、バルコニーには次から次へと人がやってきた。
元気いっぱいに最近の武勇伝を語ったパロムは、綺麗な音楽の前なのだから静かにしなさいと姉のポロムにたしなめられた。
王となったヤンは、美しい妻と、小さな娘を連れてきて、リディアに紹介した。娘の意志の強そうな瞳が妻にそっくりだった。
ルカは借り物のドレスの裾を掴んで、うっとりと目を細める。次の機会には、絶対に自分がリディアに着せるドレスを選ぶと意気揚々に宣言した。
誰と会っても話に花が咲く。こんなに笑ったのは久し振りだった。
人の往来が途切れたとき、ふいに、脳裏に幻界を出る前に言われたアスラの言葉が思い出された。
「お二方の結婚式に行ったあと、ミストの村に寄ってきてはどうかしら」
その言葉を思い出した瞬間、リディアは胸の痛みが強くなるのを感じた。
ミストに帰りたいの?
心の中で呟いてみると、その疑問を抱いたことすら馬鹿馬鹿しく思えるくらい、自分の素直な気持ちに気がついた。
・・・・ミストに帰ってみたい。
その気持ちはみるみるうちに大きくなって、リディアの心を支配した。
やがて、望郷の念以外のものが心の中に芽生え始めた。
セシルとローザ。シドのおじちゃん。ギルバート。ヤン。みんな優しい。
ルカ。パロムとポロム。可愛くて、何かをしてあげたいと思う。
今日は会えなかったけれど、カインもきっとどこかでセシルとローザを見守っているだろう。いつか会えたら、今日の様子を話そう。
そして、とてもそうは見えないうるさい王子様・・・・
自分を取り巻く人物の顔が脳裏に浮かぶと、リディアは幸せな気分になると同時に寂しさを覚えた。
幻獣王様や王妃様。幻獣たち。みんな大好きだけど、みんな優しいけれど・・・・
ふいに、少し高貴で神秘的な香りが鼻先を掠めて、リディアはその香りの心地よさに思考を止めた。
「再会を喜びに来てやったぞ。お子様」
粗野な物言いに驚いて瞳を開けて振り返ると、バルコニーと部屋をつなぐ扉のところに笑顔を浮かべたエッジが立っていた。
とてもそうは見えないうるさい王子様。
さっき脳裏に浮かんだイメージそのままの彼の姿がおかしくて、リディアは少し笑ってしまった。
エッジが怪訝そうな顔を浮かべるのも面白い。
リュートの音は聞こえなくなっていて、ギルバートの姿は見えなかった。
まさか眠ってしまっていたのだろうか。
自分の暢気さが面白くて、もう一回笑うと、エッジが腕を組んだ。
「何笑ってんだよ」
「なんでもない」
リディアが首を振ると、エッジはバルコニーの縁に手をついて、街の様子を見下ろした。
リディアも隣に立って、周囲を見渡してみる。バルコニーにはセシルとローザの姿はもうなかったが、城の周りから人垣が解散する様子は見られない。
周囲を見渡した終着点に、隣に立つエッジの姿があった。
いつもと同じような形の白い衣は、いつものそれよりも上質の素材でできているように見えた。
風に翻る紫色のマントも、いつもと同じような色ではあったが、裏に銀色の糸の細かい刺繍が施されている。
耳に光る赤い宝石はいつもと変わらない。彼はそのピアスを気に入っているのだろうなと思った。
鼻梁は高く、空色で切れ長の瞳は聡明そうで、その顔は気品があると言ってもいいのかもしれない。
銀色の髪の毛が光を反射しながら、さらさらと揺れた。
「エッジって、黙ってればかっこいいのに」
思わず漏らした本音に、リディアは少し後悔した。こんなことを言ったら、エッジは絶対図に乗るに違いない。
しかし、リディアの予想をよそに、エッジは不機嫌そうに眉を寄せた。
「いつでも男前だっての」
「はいはい」
図に乗るよりも性質が悪かったかもしれない。リディアは呆れて、彼の言葉をさらりと流した。
リディアの応答に、エッジは怒るでもなく吹き出して、その正装に似合わないくらい陽気に大声で笑い出した。
やっぱり前言撤回だ。その姿を見てリディアは心の中で宣言し、自らもお腹を押さえて大きな口を開けて笑った。
以前は日常的だったこんなやりとりが、すごく懐かしく感じられる。
また胸が痛む。笑い声が止まり、思わず目を伏せる。
「お前、なんか元気ねえな」
エッジの声に、リディアは反射的に顔を上げた。
「めでたい日なのに、辛気臭いガキだな。なんかあったのか」
ぶっきらぼうな言い方だが、今日会った誰にも指摘されなかったことを、この短時間で言い当てられたことに少し驚きながら、リディアは苦笑を浮かべた。
「え?そう見える?何もないんだけど」
否定をすると、エッジは長い息を吐き出して、リディアの右頬を軽くつまんだ。
「オレ様の目をごまかそうなんて百年早いぜ。顔に書いてあるぞ。話を聞いてー!って」
まさかと思いながら、右頬をつままれた指の上に手を当てる。
しかし、その仕草は何か引っかかることがあるということを肯定する動作になってしまうではないか。
後から気がついて、リディアは観念したように、胸にひっかかった溜息を吐き出した。
エッジが自分の頬から手を離したのを合図にして、リディアは胸の中にある言葉を紡ぎ出した。
「ミストの村に帰ることなんて、到底できないと思ってたの。
きっと、村にはまだバロンを・・・・セシルとカインを憎んでいる人がいる。
そのふたりを許してしまって、彼らと一緒に戦ったあたしを許してくれない人が絶対いるだろうから」
紅蓮の炎に包まれた小さな村の光景が脳裏に蘇る。
逃げ惑う人々。動かなくなってしまった母。泣き喚く小さな自分。
赤く染まった悲惨な光景が、まざまざと脳裏に蘇る。
独白は、青い空に吸い込まれていく。
エッジの視線を横顔に感じながら、リディアは続けた。
「だから、月から帰ってきた後、幻界に行ったの。あそこならきっと何かできると思ったし、第二の故郷だから」
何度めだろう。リディアは、広い空を仰いだ。
白い光を放つ太陽が眩しい。
純白の雲がひとつだけぽっかりと浮かんでいて、ゆっくりと流れていく。
雲に負けないくらい純白の翼を持つ大きな鳥が風に乗って、大きな弧を描いている。
色とりどりの花びらが楽しそうに踊っている。
「でも、多分、この空を見たときに、やっぱり地上っていいなって思ったんだ」
幻界に物足りなさを感じたことはなかった。
幻獣王様や王妃様、幻獣たちがいたから寂しくはなかったし、一生かかっても読みきれない本がそこにはあった。
そこまで考えて、リディアはひとつだけ寂しいと思ったことを思い出した。
幻界に、地上に生けるような植物がないことだ。
その気持ちは、エッジが送ってくれた花の種や球根を育てることで、解消されていた。
しかし。リディアは思った。
本当に自分が寂しいと思ったのは植物だけだったのだろうか?
幻界への物足りなさや寂しさを感じたくないがために、他のものに対しても芽生える自分の気持ちに気がつかないふりをしていただけなのだろうか。
物足りない、寂しい、と思うことで、自分や、周りの全てを否定してしまうから、必死でその気持ちを打ち消していたのではないだろうか。
地上の世界を美しいと思うことは、大好きな幻獣王様や王妃様、幻獣たちへの裏切りになると思ったのだ。
だから胸が痛んだ・・・・・・・・
「で、ミストに帰りたくなったのか」
負の思考に全身が覆われそうになったところに、エッジが救いの言葉を挟んでくれたので、リディアは微笑みながら曖昧に頷いた。
その微笑はいびつだったかもしれない。
「帰りたいって言うのかな。ミストのために何かしたいと思ったの。それがあたしの罪滅ぼしになるかもしれない」
罪滅ぼし。無意識に出たその言葉が、自分の心情を最もよく表しているように思った。
故郷を裏切ったと思われても仕方がない自分。
しかし、あの故郷がなければ、きっと自分は先の戦いを戦い抜く力を持たなかったはずだ。
だから、ミストのために、何かしたい。
そして、ミストに美しさを取り戻したい。
彼の反応が知りたくて、リディアは視線を空から横に立つエッジに移した。
視線が合うと、エッジはリディアの頬の横に手を伸ばした。
彼の何気ない仕草に、何故か胸が鼓動が早くなる。
しかし、その手はリディアの頬を素通りして、横に垂れる髪の毛に到達した。
髪の毛に花びらが引っかかっていたらしい。解放された花びらは、他の無数の花びらと一緒に風の中へ舞っていく。
切れ長の目が細められる。今の鼓動の高鳴りが伝わってしまったのではないかと想像して、リディアは少し心配になった。
「なんでだろうな。故郷って、忘れられないよな」
独り言のような彼の言葉に、リディアは自分の心配が無用なものであったことに安心し、次の言葉を鎮まった心で待った。
「少しの間、忘れることはできるかもしれない。でも、オレは自分の故郷を心から捨てられる奴なんていないと思う」
あのバカもな、とエッジが付け足した。誰のことだろう、とリディアは首を傾げたが、エッジは笑ってごまかした。
「でもな、故郷も自分を忘れないんだぜ」
意味がわからなくて少し眉を寄せると、エッジはいつもの自信に溢れる笑顔を浮かべた。
「自分が故郷を忘れないで、大事にする気持ちがあれば、故郷はいつでも自分を受け入れてくれる」
大事にする気持ちがあれば、というところが引っかかり、リディアは思わずエッジに問いかけてしまった。
「あたしは、故郷を大事にしてるのかな?」
故郷の敵とも言える人間を許し、故郷によって育まれた力を持って、共に戦ってしまった自分。
壊滅状態の故郷を捨てて、幻界に行ってしまった自分。
赤く燃える村の光景がもう一度思い出されて、リディアは頭を振ってその光景を追いやろうとした。
伸ばされた大きな手は、今度は頭の上に着地した。
どう表現するのが適当なのかわからない、神秘的な香りがする。
「ミストのために何かしたいって言うのは、これから大事にしようとしてるってことだろ。大丈夫だ」
大丈夫。エッジにそう言われると、本当になんとかなりそうな気がしてくるのが不思議だった。
その単語をリディアの全身に浸透させるかのように、自分の頭を撫でながら、エッジは繰り返した。
「大丈夫なんだろ。ひとりじゃないから」
聞いたことのある言葉は、以前自分がエッジにかけたものだ。
思い出したか、と言いたげな彼が白い歯を見せた。
全てを見透かしたようなエッジの瞳の色は、朝の空の色だった。
その色に、ギルバートの歌が思い出される。
・・・・一日の始まりの朝焼け。鳥の歌声で目覚める人々に、優しい光は希望を与える。
エッジの瞳は希望の色なんだ。
確かに、今、自分に希望を与えてくれた。
まったく関係なさそうなふたつのものを無理矢理結びつけて感動を覚えている自分に気がついて、リディアは照れ笑いを浮かべてしまった。
この恥ずかしさがエッジに伝わらないように、リディアはもう一度大きな空を見上げた。
「やっぱり、この世界は綺麗」
西の空が少し赤く染まりかけていた。
無数の花びらが、空に不規則な模様を描き続けていた。
国情を考慮してか、豪華絢爛とは言えないが、上品な料理が並んだ晩餐の後、与えられた部屋で着替えをしようと回廊を歩いていたところ、婚礼の衣装から少し軽装に着替えたローザが後ろから早足で追いかけてきた。
「やっとリディアとお話できるわね」
無邪気にドレスの裾を上げて走り寄ってくる仕草は、優雅さを兼ね備えながらも可愛らしい。リディアは自然と顔がほころんだ。
舞踏曲が遠くから聞こえる。
その曲のようになめらかな視線でリディアの全身を見やり、ローザは薔薇のように美しい笑顔を見せた。
「本当に今日のリディアは素敵よ」
婚礼の儀のときにもかけられた言葉は、恐らく今宵世界で一番美と幸福に包まれた王妃から受ける言葉としては恐縮すぎて、リディアはまたもや頭を振った。
「本当に、そんなことないの。このドレスもシドの娘さんから借りたんだよ」
少し恥ずかしくなって、ローザの耳元で小声で告白すると、彼女は一瞬不思議そうな表情になった後、楽しそうな笑顔を浮かべた。
「あら、そういうことになっているの」
首を傾げると、ローザは楽しそうな表情のままリディアの肩に手を置いた。
「みんな、リディアには赤とか桃色とか、そういう色のドレスがいいって言ってたのよ。
でもそれじゃ髪の毛の色に合わないし、可愛すぎてガキっぽいから、もう少し大人っぽい上品な色の方がいいって主張する人がいてね」
話していて思い出したそのときの出来事が面白かったのか、ローザは口に手をあてて少し笑った後、そのドレスで本当に正解だったわね、とにっこり微笑んだ。
彼女の言葉に少し違和感を覚えたが、今日一日は儀式だらけであろう彼女が、わざわざ自分のために時間を割いてくれたことが嬉しくて、リディアはローザの言葉の意味を深く考えずに、微笑み返した。
リディアが与えられた城の一室に戻ると、シドの娘が着替えを手伝うためにすでに待機していた。
ドレスを借りたことについてお礼を述べると、娘は困ったように首を振った。
「これ、私のドレスではないんです」
私にはこんなに細いドレスは入りませんし、と付け足して、彼女は苦笑を浮かべる。
「じゃあ、このドレスは・・・・」
娘は、リディアの疑問を解消しようと考えてくれているのか、このドレスにまつわる話を語り始めた。
ある日シドが嬉しそうな顔をして、大きな箱を持って、家に帰ってきた。
また飛空挺の部品だろうかと呆れながらその箱を開けると、中から出てきたのは、金色に光り輝く美しいドレスで、娘は思わず感嘆を上げた。
しかし、とても自分が着るようなドレスではない。
疑問を感じて彼女が父に聞くと、新国王夫妻の戴冠式兼結婚式の際にリディアが着るドレスを預かったとのことだった。
その際には準備を手伝えと言いつけられ、美しいドレスに心が躍り、彼女は二つ返事で了承したらしい。
彼女の話を聞いて、リディアは様々なことに対して妙に納得することができた。
よく見るとシドの娘はリディアよりもずっと小柄で、とてもこのドレスがおさがりだとは思えなかったからだ。
自分の姿を見た、人々の反応の理由もわかる。やはり、このドレスは自分のために作られたものだったのだ。
でも誰が?リディアは疑問を抱き続けていた。
最大の疑問の部分はシドの娘の話を聞いても不明なままだった。
シドは「預かった」と言ったらしいから、シドではない。
セシルとローザだろうか?主賓自ら客の衣装を用意してくれたとなると恐れ多い。
そこで、先程のローザとの会話が思い出された。
みんな、リディアには赤とか桃色とか、そういう色のドレスがいいって言ってたのよ。
でもそれじゃ髪の毛の色に合わないし、可愛すぎてガキっぽいから、もう少し大人っぽい上品な色の方がいいって主張する人がいてね。
反芻してみて、あのとき感じた違和感の正体をリディアは突き止めた気がした。
謎解きが終わって、その答えを早く伝えたい子供のような衝動が抑えられず、リディアはシドの娘にお礼と、もう少し待ってほしい旨を伝え、ドレス姿のままで部屋を飛び出した。
シドとエッジの笑い声が聞こえ、リディアはその部屋の前で足を止めた。
ドアを開けて中を覗くと、晩餐が終わったあとも、ふたりは小さなサロンで杯を交わしていたらしい。
そのふたりの横に立つと、紫がかった視線だけで何をしに来たのか問われた。
素っ気ない彼の態度が面白いと思った。リディアは昼間もしたように膝を折って、お辞儀をしてみせる。
エッジは口を開けてその様子を眺めていた。
「ありがと。このドレス、エッジが用意してくれたんでしょ」
お礼の言葉を述べると、シドはにやりと目を細め、エッジは一瞬ばつの悪そうな顔をして、視線を逸らした。
リディアはそんな彼の様子に確信を強めるが、気丈にもエッジは疑惑を否定してみせた。
「知らねえよ」
あくまでもとぼけるつもりらしい。シドを見ると、楽しそうに笑っている。
さらに確信を強め、リディアは追求を続けた。
「嘘ばっかり。あたしのことガキなんて言って、大人っぽいものを勧めるのはエッジだけなんだから」
証拠を突きつけると、犯人は憎憎しげに誰だよ、と吐き捨て、それが自白となった。
リディアは満足感から満面の笑みを浮かべた。
証人の名は出さないでおこう。その方が面白そうだ。
やりとりを見ていたシドが大きな声を上げて笑う。
「がはは!かっこつけようとしたのに、残念じゃったなあ、王子様!」
シドの言葉にうんざりとしたようにエッジが額に手を当てる。
情けない顔はとても格好いいなどという形容詞からはかけ離れていて、リディアは笑いながら追い討ちをかけた。
「黙ってて、真面目な顔してればかっこいいから大丈夫だよ」
「だから!オレ様はいつでもかっこいいって言ってるだろ!!・・・・って、ああ!もう!!」
反論しながらも、ドレスの件が露呈したのが余程恥ずかしかったのか、エッジはがっくりとうなだれた。
なんだか全てが面白くて、シドと顔を見合わせて笑った。
エッジがやっと顔をあげて、やけを起こしたかのように、大きなグラスに注がれた酒を飲み干したのを見計らい、リディアは昼に話してからずっと思っていたことを思い切って口にした。
「エッジ、お願いがあるの」
「なんだよ」
拗ねたようなエッジの顔にやや緊張感を覚えながら、リディアは勇気を持って、次の言葉を搾り出した。
「・・・・明日、一緒に、ミストの村に行ってもらえないかな」
エッジは無言で、リディアの真意を探ろうとしているのか、空色の瞳を少し見開いた。
先程とは同一人物とは思えないくらい真剣な眼差しだ。
澄んだ瞳は自分の心を見透かして、何を思っているのだろう。心の中を不安がよぎる。
やっぱり前言撤回しようかな、と思った瞬間、シドが逞しい腕をエッジの頭めがけて振り下ろした。
「いて!!」
「お前はバカか!!綺麗なお嬢ちゃんが誘ってるのに、嬉しすぎて返事しないなんて、男のクズじゃ!!」
頭を抱えてうずくまるエッジの代わりと言わんばかりの勢いで、シドがリディアの手を大きな手で強く握った。
「こんな奴で良ければいつでも連れて行け。護衛でも、荷物持ちでも、なんでもやらせていいんじゃからな」
「ジジイ・・・・オレの意思は無視かよ・・・・」
頭を押さえながら、エッジは抗議の視線をシドに向けている。
シドはそんなエッジの鋭い視線を物ともせず、にやにやとした笑顔を顔に貼り付けている。
「じゃ、せっかくのお誘いを断るのか」
シドの言葉に鋭い視線は突然勢いを失い、エッジはシドから顔を逸らして外方を向いた。
「仕方ねえな。ガキが迷子になっちゃ困るから一緒に行ってやるよ」
「あっ、また子供扱いした!」
不満を漏らすと、シドが相変わらずにやにやとした笑顔を浮かべて何度も頷いた。
「素直じゃない奴じゃのー。さっきまで今日のリディアは綺麗だったの色気があっただのとうるさかったくせにのー。
さんざん、惚れなお・・・・」
「うるせえ!お前ら!!」
エッジの怒声がシドの暴露を遮る。
リディアが吹き出すと、シドも豪快に笑い声を上げた。
本当によく笑う日だ。リディアは大きな口を開けながら、しみじみと思った。
様々な不安を、笑顔が吹き飛ばしてくれた。
窓の外は暗い。
でも、数時間すれば、この世界は明るい光に包まれる。
大丈夫なんだろ。ひとりじゃないから。
エッジの言葉と、彼の瞳と同じ色をした澄んだ朝の空を思い浮かべると、胸の奥がほのかに温かくなるのを感じた。
これが希望なのかな。リディアは、その温かさが逃げてしまわないように、胸の上に手を重ねた。
end
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続編:『曇り空の太陽』
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