2014年3月9日日曜日

SS: 青空の三日月

こちらも以前書いたSSのタイトルを変更してみました。
FF4のラスボス戦後、月から帰ってきたときの話です。幻界へ行くというリディアを止められない若様。




『青空の三日月』


その役目を終えた魔導船が、轟音とともに海に飲まれていく。
魔導船の姿が見えなくなると、久し振りに見る青い空と青い海に、思わず息を飲んだ。
青い空の下の海は、目が痛くなるほどの青さだった。
鮮やかな色と、かすかな潮の香りに、望郷にも似た感情を抱く。

 空と海ばかりではない。見慣れていたはずの草木や、街道にぽつりぽつりと咲く花、その周囲を駆ける動物や、歌う鳥たち。
無味乾燥な月にいたからだろう。そんな当たり前の景色でさえも、全てが華やかに彩られており、その生命を謳歌しているように見えた。

 ミシディアの村に向かう街道は、一行の帰還を祝う人々で埋め尽くされていた。
歓喜に沸く群集が、まるで道しるべのように、村まで連なっている。熱狂の渦が天まで届いたのか、雲ひとつない快晴だった。
村へ到着するや、祈りを捧げ続けていた人々から熱烈な歓迎を受け、すぐに宴が始まった。
あちらでは肉や魚が焼かれ、こちらでは無数の酒樽が転がっている。
酒だけではなく、歓喜の瞬間に酔った人々の嬌声や、陽気な音楽が村中、いや、この星中を包み込む勢いで膨れ上がっていく。

 誰もが笑顔だった。もちろん、自分も。

 大きなグラスに注がれた小金色の酒はエッジを酔わすには力不足ではあったが、他の多くの人々と同じように彼もこの瞬間、この空間に酔いしれていた。
「もう、飲みすぎだよ」
リディアが人垣を掻き分けて現れ、エッジの前に転がっている酒樽を見て呆れたように笑った。
彼女はまだそんなに飲んでいないようだ。顔が普段と同じく雪のように白い。
「今日飲まずにいつ飲むんだよ!ほら、お前もちょっと飲めよ!」
比較的弱そうな酒のグラスを渡すと、リディアはありがと、と言って少しだけ形の良い口をつけた。
リディアが近くに来た途端に、先程まで自分がそのさなかにいた喧騒が、嘘のように遠く聞こえた。
一歩引いたところから、冷静に人々の笑顔を眺めている自分がいる。不思議だった。
「本当に良かったね。みんな嬉しそう」
リディアの言葉も、どこか第三者的に聞こえるのは気のせいだろうか。
「だな。今頃、エブラーナでも飲めや歌えやの大騒ぎなんだろなー」
エッジは少しの間、祖国に想いを巡らせた。
きっと、じいを始めとした国民が、浮き足立って祝賀の祭の準備をし、今か今かと自分の帰りを待っていることであろう。
「あはは。みんながどこかの王子様みたいに酔っ払ったりしないよ」
リディアの言葉の間に、自分のグラスが空になってしまう。目の前の酒樽から、なみなみと新しい酒を注ぎ入れる。
人々を眺めて微笑むリディアの酒はほとんど減っていないように見える。エッジはふと疑問を口にした。
「お前はこの後どうすんだよ」
リディアはいつものように朗らかに微笑んだ。
「あたしは、幻界に戻るよ」
エッジは思わず傾けていたグラスから口を離す。予想外の答えだったからだ。
「は?」
聞き返されたのは喧騒のせいだと思ったのだろう。リディアは微笑んで、再度宣言した。
「幻界に戻って、幻獣たちと一緒に暮らすわ」
それが当たり前と言わんばかりの、明るい口調だった。

 月に再度上陸してから、エッジは戦いの後のことを少し考えることがあった。
この戦いが終わったら、一同はそれぞれどうするのだろうか。
恐らくセシルとローザはバロンに帰るであろう。
カインはバロンには帰れないかもしれない。しばらく各国を放浪するのではないだろうか。
そしてリディアは・・・・ミストの村に帰ると思い込んでいた。
自分はエブラーナの再建に力を尽くさねばならない立場ではあるが、彼女がミストの村を復興するのであれば、その力になりたいと考えていた。
リディアと離れることは、自分の立場を考えれば、耐え難いことなどとは言えない。
しかし、歓迎すべき状況でないことには変わりない。だから、せめて彼女の力になりたかったのだ。
そして、たまに会って彼女の笑顔が見られれば・・・・そんなつもりでいた。

 しかし、幻界に行くとなれば話は別だ。
会いに行くにもミストの何倍もの距離があるから、おいそれと行けないし、当然自分が力になれることなどない。
その上、時間の流れの速い幻界に、一般的に短命と言われる召喚士が身を置くということは・・・・
ミストが壊滅状態になったことに対し、リディアは責任を感じているのだろう。
その責任感が「ミストを復興すること」と「ミストに戻らないこと」という相反するどちらかを選択させ、彼女は「ミストに戻らないこと」を選んだのかもしれない。
そんな彼女に、ミストを復興しろなどとは口が裂けても言えない。
「そっか。幻界か」
自分の口から出てきた言葉の淡白さに嫌気が差す。
自分の心中を知るわけもないリディアは笑顔で頷いて、また喧騒の渦に視線を送る。
「本当に、みんな幸せそう」
・・・・オレ以外はな。
リディアの言葉にエッジは心の中で反論した。

 久し振りの夕日は燃えるような色で、目を閉じてもその光が迫ってくるのを感じた。
紅く眩しい光が夜の帳をゆっくりと上げていく。
翌朝も良い天気だった。
朝の光が当たり前のように溢れるこの世界。しかし昨日青空と海を見たときのように特別な感情は抱かなかった。

 カインの姿はなかった。
夜中、宿の廊下から聞こえた足音は彼のものだったのであろう。
案の定予想が当たったことによる小さな満足感は、すぐに消え去った。

 一晩経ってもリディアの考えは変わるわけがなかった。昨日の自分を少し責めるが、後の祭だ。
「あなたさえ良ければ、バロンに来ていいのよ?」
ローザは優しくリディアを説得にかかる。
セシルとローザは今日のうちに飛空艇に乗ってバロンへ向かうという。恐らくふたりの脳裏に浮かんだ心配は昨日の自分と同種であろう。もしかしたらそれ以上かもしれない。
リディアはローザの誘いに感謝しつつも、きっぱりと断った。
「あたしは、この戦いで力になってくれた幻獣たちに感謝してるんだ。
 今度はあたしが力になりたいの。何ができるかわからないけど」
リディアの意思の強さは万人が知るところであって、ここまできっぱりと意思を表明した彼女が、それを曲げるとは考えにくい。
やはりそれを良く知るセシルとローザは少し残念そうに顔を見合わせた。
「リディア、君の気持ちはわかったよ。でも、本当にいつでもバロンへ来ていいんだからね」
セシルが彼女緑色の頭に手を置いて、諭すように語りかける。リディアは満面の微笑みで頷いた。
ふと、ローザと視線がぶつかった。
どう表現すべきか、彼女の瞳は期待にも、悲しみにも、怒りにも、あきらめにも見える色が浮かんでいる。
それが何に対するものか、何も言われなくてもわかっている。
でもどうすればいい?心の中で問いかけるも、ローザが応えてくれるわけがなかった。

 「リディア!そろそろ飛空艇へ来て!もうすぐ出発だよ!」
宿の外から少女の声がした。ルカだ。地底に戻るのに、ファルコンを使うらしい。幻界へリディアが行くことを知り、送るつもりなのだ。
「あ、うん!すぐ行く!」
ルカの言葉に返事をし、リディアは改まった様子で頭を下げた。
「セシル、ローザ、本当にどうもありがとう。また遊びに行くね」
セシルとローザが順番にリディアの細い身体を抱きしめる。ローザとリディアの目にうっすらと涙が浮かんでいた。
ローザから離れたところで、リディアがエッジに身体を向ける。相変わらずローザの視線が痛い。

 わかった、わかった、と心の中でつぶやく。
リディアが言葉を発する前に、エッジはリディアが足元に置いていた重そうな大きい荷物を持ち上げた。
あっ、とリディアが声を上げる。
「迷子になるかもしれねえから、送ってくぜ」
我ながら不器用すぎる。
しかしローザの鋭い視線からは解放された気がする。寝不足の身体が嘘のように軽くなったのはそのせいか。

 リディアはエッジの思わぬ行動に少し驚いたようだった。きょとんとした様子でエッジの申し出を断ろうとする。
「大丈夫だよ。もうモンスターもいないし」
「ガキの迷子はモンスターもなにも関係ねーだろ。行くぞ。セシル、ローザ、またな!!」
手を軽く上げると、素っ気ないエッジの別れの挨拶に気分を害すどころか満足した様子で、セシルとローザが手を振る。
「また会おう、エッジ!」
「エブラーナにも遊びに行くわね」
そのふたりの言葉に後押しされるように、エッジはリディアの荷物を持って、ルカの声がした方に踵を返し、早足で歩き始めた。
「ちょっと!エッジ!今、また子供扱いしたでしょ!!!」
慌てて頬を膨らませたリディアが後を追ってくる。
賑やかな町でも、彼女の軽やかな足音ははっきり聞き分けられた。


地底は、吹き出す溶岩の鈍い光で、辛うじて地上の日が落ちた直後ほどの明るさを保っていた。
空と海と緑色の大地と比較すると、地底も月も大差ないように思え、太陽光の素晴らしさを再度思い知らされる。
この色彩の少ない大地でリディアは生きていくと言っているのだ。
飛空挺から赤黒い大地を眺め、他人事ながら、エッジは気が滅入るのを感じた。
確かに地底に息づくドワーフたちがいる。
しかし、我々人間は、やはり自分たちが生まれた大地で暮らすことが自然なのではないか?
ましてや幻界など・・・・
そんな自分の思考の一端も見せる間もなく、飛空挺は幻界への入口の洞窟の前に着陸したのであった。

 リディアの言う通り、幻獣の洞窟にもモンスターは皆無だった。
リディアが得意げな顔を向けてくる。
「ね、言ったでしょ。モンスターなんていないって」
自分と同じことを考えていたらしい。エッジは飛空挺に乗る前に捏造した理由を繰り返した。
「だから、モンスターの問題じゃなくって、迷子の問題って言ったじゃねーか」
応戦するとリディアは少し頬を膨らませる。
その様子がおかしくて吹き出すと、それがまた不満だったようで、背中を叩かれた。
「あたしだって、この旅でちょっとは大人になったんだから」
「はいはい」
再度背中を叩かれる。軽い痛みが心地よい。
こんなやりとりも、日常的にできなくなってしまうと思うと、感慨深いものがあった。
リディアは迷わないことを誇示するためか、ずんずんと先を進んでいく。エッジは苦笑しながらそれを追いかけた。

 しばらく歩くと、床一面に鈍く光る放つ液体が広がっていた。
以前興味本位でその床に何も考えずに突入し、痛い目に遭ったことを思い出す。
前に来たときはローザがレビテトをかけてくれたが、今日はそれを望むべくもない。
怒ったリディアは、気づいているのかいないのか、その床へ無防備に突入しようとしている。
エッジは自分がついてきたことの意味を見つけて少し安堵感を覚えながら、前を行くリディアの腕を掴んだ。
「迷ってないもん!」
振り返った彼女の威勢の良さを軽く受け流し、彼女の足と背中を支えるようにして抱き上げる。
きゃっ、と短い悲鳴が上がる。相変わらず軽い身体だ。
「離して!エッジのばか!!変態!!」
相変わらずひどい言われようだ。それも軽く受け流して、エッジは口の端を上げた。
「アホか。着く前に動けなくなるぞ。オレは昔こういう修行を死ぬほどやらされたから、朝飯前なんだよ」
しばらく抵抗を続けていたリディアであったが、そのエッジの言葉に痛いところを突かれたようで、突然大人しくなった。
リディアのふわりとした髪の毛から新緑と花が混ざったような春の香りがする。
その香りが今の状況と、あまりにも対照的で、笑いそうになる。
もしかして、この床は人間の侵入を拒むためなのだろうか。全身に軽い痺れを感じながら、エッジの脳裏にそんな考えが浮かんだ。


リディアの帰還は、幻獣の町を歓喜に沸かせた。
様々な形相の幻獣たちがリディアを取り囲み、その帰還を素直に喜んでいた。リディアも、彼らの歓迎に満面の笑顔で応えている。
その様子を少し離れたところから見ていたエッジは、いよいよ後悔の念に襲われた。
ここまで連れてきてしまったら、リディアの意志を曲げることはますます難しくなったのではないか。
やはり連れて来る前になんとしてでも阻止しなければならなかったのだ。
しかし、彼女の胸中を慮ると、どう伝えるのが良いのかわからない。
幻獣の町に行くのはやめろ、などと率直に伝えたら間違いなく自分の真意が伝わるより前に彼女の全身に怒りの分子が行き渡るであろう。
かと言って、ミストの村のことを話題にするのは、禁忌であるように感じていた。
彼女の心を縛りつけているであろう、亡き母への想いと、セシルとカインへの想い、そして村に残された人々への想い。
それらは複雑に絡み合っていて、その糸を無理矢理解こうとしたならば、彼女の心に深い傷をつけてしまうことは明白であった。
「エッジ、幻獣王様と女王様に会いに行こうよ」
リディアの明るい声が、エッジを思考の世界から現実の世界へ引き戻した。

 「おお!リディア!戻ってきたか!」
人間の老人のような姿をした幻獣王が、リディアを見て思わず玉座から立ち上がった。
孫を見るかのような優しい瞳だ。
「幻獣王様!ただいま戻りました!」
リディアもそんな幻獣王に駆け寄り、手を取る。
傍目には祖父と孫のやりとりだ。
エッジはそれを見て素直に微笑ましい気持ちになったのであったが、次の軽い違和感を覚えた。
隣に座る女王の美しい表情に、少し影が差した気がしたのだ。
一瞬のことではあったが、あまりにもリヴァイアサンの表情と対照的であったため、強い印象を受ける。
そんなエッジのわずかな視線に気づいたのか、女王、アスラは無言でエッジに優しく微笑みを投げかけてきた。
そして、何事もなかったかのようにリディアとリヴァイアサンの会話に入っていった。

 その日、幻獣の町でも簡単な宴が催された。
ミシディアでの宴のように酒池肉林というわけにはいかなかったが、いつも静かな幻獣の町に優雅な音楽が流れ、幻獣たちはその音楽に乗って楽しそうに踊っていた。
リディアは幻獣たちの中心にいて、ずっと明るい笑顔を浮かべている。
完璧に機を逸している自分に嫌気が差し、幻界の珍しい酒を流し込む。不快感もこの酒と一緒に流れて消えてしまえばいいのに。
何杯飲んだろう。思い出すのが難しくなってきた頃、アスラが隣に立って、空になった杯に酒を満たしてくれていた。
「いつか、あの子は地上に帰らねばならないと思っています」
アスラの言葉は、先程の自分の表情の影の理由を説明するかのようだった。
「いいのかよ。みんな嬉しそうに見えっけど」
エッジは自分の視線の先を指差した。
みんな・・・・そう、幻獣王を始めとする幻獣たちだけでなく、リディアもこの上なく幸せそうな笑顔だった。
エッジの指の先を眺め、アスラは美しい顔に先程と同じ影を落とす。
「だからこそ、リディアはここにいてはならないと思うのです。
私たちもできる限り長くリディアと一緒にいたい。
しかし、その手段は彼女がこの町で一緒に暮らすことではないと、私は断言できます」
話がわかるじゃねえか、エッジは思わず呟いてしまう。
そうなのだ。彼女とできる限り長くいるためには、彼女ができる限り長く生きる必要があるのだ。
「でも今は無理でしょうね。ゼロムスを倒したという達成感が皆から冷静さを奪っています。
そこであなたにお願いがあるのです」
アスラはエッジな粗野な物言いも気にせず、エッジと向き合った。
「私が機を見てリディアにここから出て行くように言います。そのとき、あの子を受け止めてあげてほしいのです」
アスラが軽く頭を下げる。エッジはアスラに頭を上げるように促し、リディアを一瞥して笑った。
「言われなくてもそうするつもりだから、頭なんか下げないでくれ」
エッジの言葉にアスラの表情から暗い影が消える。エッジは少し胸のつかえが取れたような気分になり、また杯をあおった。
ささやかな宴はまだまだ終わりそうになかった。


翌日、アスラが魔法で地上まで移動させると提案してくれたので、その好意に甘えることにした。
リディアと別れることが不可避であるならば、一刻も早くエブラーナに帰りたかったし、何よりひとりで地底を歩いて行くのは退屈に違いないと思っていたので、渡りに船だった。
別れの時間が迫り、多感なリディアの瞳が少し寂しそうに伏せられた。
ほとんど衝動的にそんな彼女を抱き寄せる。
セシルとローザも同じようにしていたから、きっと怒られないだろう。案の定、リディアは大人しく腕の中に納まって、自分の背中に手を回してきた。
新緑と花の香りが鼻腔をくすぐる。
細さから来る硬さと、少女特有の弾力に富んだ魅惑的な心地よさが、彼女と触れている神経という神経から伝わってくる。
ずっとこのままでいたい欲求に駆られながらも、それを必死に振り切る。
「お前、ずっとここにいるつもりか?」
「うん」
「すぐババアになっちまうぞ」
「あはは。じゃあすぐに、色っぽい大人の女になれるかな。エッジも放っておけないくらいの」
「・・・・今でも十分」
「なあに?」
「・・・・なんでもない」
「エッジがいて楽しかったよ。ありがとう」
「最後に一言言わせろ」
「なあに?」
聞き返してくるリディアの子供っぽくて無邪気な口調に、話を振っておきながらもエッジは躊躇した。
言ってしまおうか。
自分がどれだけリディアに惹かれているかを。
離れることは堪え難く、いつまでも近くにいたいということを。
いつまでもリディアの力になりたいということを。

 「いてっ!!!!」

 ぽかりと頭を硬い物で殴られる。不意打ちをくらい、エッジは思わずリディアを離し、しゃがみこんで後頭部を手で押さえた。
「いつまでやっとんじゃ。リディアから離れんかい」
その声に振り返ると、幻獣王が半眼でエッジを睨みつけている。
痛いわけだ。エッジを殴ったのは硬そうな木でできた杖だった。
子供っぽい行動に怒りより呆れを覚えながら、エッジは涙目でリヴァイアサンを見上げる。
リディアはころころと笑っていた。屈託なく、一点の曇りもない笑顔で。
「そろそろいいですか?」
一緒に笑っていたアスラが一同を見回す。
エッジのところで視線が止まり、彼女はうっすらと微笑んだ。
凛とした声で魔法の詠唱が始まる。
光に包まれた自分の姿が足元から少しずつ見えなくなっていく。
リディアが自分の手を取り、両手で軽く包み込んだ。
「エッジ、またね」
その手を握り返すが、柔らかな彼女の手の感触が少しずつ失われていく。

 新緑と花の香り。
緑色のつややかな髪。
長い睫毛に縁取られたきらきらと輝く紺碧の瞳。
小さいけれど形の良い桃色の唇。
細いけれど、柔らかな肢体。

 今更気が急いてきた。
自分は何をしているのだろう。
リディアとの・・・・好きな女との別れなのに、気の利いた言葉も言えないなんて!

 自分の手を握り続けているリディアは、相変わらずいつもの邪気のない笑顔だ。
次にこの笑顔に会えるのはいつなのだろうか。
エッジは先程言えなかった言葉を、ほとんど叫ぶかのように彼女にぶつけた。
「絶対迎えに来るから待ってろ!」
一瞬彼女の笑顔に、驚きが生まれたように見えた。

 もう一度、彼女の表情の変化を確認しようとした瞬間、エッジの目の前には朝もやに包まれた懐かしい景色が広がっていた。

 城壁が崩れかけた城を守るかのように、花を咲かせた草木が周囲を取り囲んでいる。
早起きの鳥たちの長い声が静かな平原に響き渡り、あちらこちらに反響する。
間違いない。故郷、エブラーナの風景だ。

 朝特有の淡い色彩の青空を見上げると、優しい光を放つ三日月がエッジを見下ろしていた。

 中から見るより、外から見る方がいいな、月は。
ふと抱いた自分の感想が面白くて、少し笑ってしまう。
「お前がいない間、お前の分も見といてやるよ。この世界を」
朝露のにおいが立ち込めている。
それは彼女の香りに似ている気がした。

 三日月に背を向け、故郷の大地を踏みしめるように、エッジは歩き始めた。





end

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続編
『空は今でも青い』

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